命の重さの言語化
あんたも安倍元首相の襲撃事件を理由に警察庁長官が辞職したってニュースを見たかい?
流石に安倍さんともなると警察庁長官のクビが飛ぶのかってみてたんだけれども、ちょっとした違和感みたいなものが俺の中に出てきたんだよね。
あれ?
命の重さってみんな同じなんじゃないんだっけ?
タラレバの話をしても意味は無いけれど、他のヒトが犠牲になったとしたら警察庁長官のクビが飛ぶことはなかったんじゃないかって思うんだよ。
実際、日々のニュースでは様々な痛ましい事件によって多くのヒトの命が奪われているって伝えられている。
でも、そのたびに警察庁長官は辞職しないもんな。
今回は命の重さって言葉について考えてみる回だ。
ちっと、この重苦しい言葉について考えてみようぜ。
警察庁長官の辞職理由
このニュースを見てみると、中村警察庁長官は辞職の理由としてこんな風に言葉にしているそうだ。
この言葉。
「このようなこと」ってどのようなことなんだ?
警察組織という国民を守る組織が直接警護している状態で殺人が行われるってことか?
だとすると、その時点で警察という組織は命の重み付けをしているってことになるんだよな。
そんなん、前からそうだべ?って言われればその通りなんだけれど、この警察庁長官の辞任ってのはその事実を明確に縁取りする行為だと思ったんだよ。
組織にとっての命の重み
そう考えてみると、警察に限らず多くの組織では命の重みにさをつけて運営されていると思う。
そりゃあ、運営リソースは有限なんだから選択と集中をしていかないことには話にならないってのが現実だもんな。
特に、今回のケースのSPって仕事は、ホントの意味で命が関わってくる仕事だってことが改めて感じられるわけだ。
戦争なんてもっと顕著だよな。
階級っていう死ぬべき順番が明確に定義されているんだし。
そこでふと考える。
組織が守ろうとしているのは、ホントにそのヒトの命か?ってね。
多分違うんだよな。
じゃあ、組織は命ではなくて何を守ろうとしているんだろう?
組織が守ろうとしているもの
例えば今回の事件について考えると、警察が守らなければならなかったのは「安部元首相」だったんだと思うわけだ。
「安倍晋三」という一人のヒトの命ではなくね。
何が言いたいかというと、組織が守るのは命じゃなくて役割だってことだ。
「安部元首相」という役割が担ってきたものってのは日本という国にとってすごい影響を及ぼしてきたのは間違いない。
もちろんその影響の全てを肯定的にとらえらる訳じゃないけれど、その影響の大きさってことに対して疑問の余地はないと思う。
そして、今回の事件がなければ、その影響ってのはこれからもずっと続いていたと思う。
警察が守らなければならなかったのは、その影響力の源泉である「安部元首相」という役割だったってことだと思うんだよ。
命の重さ
でもだよ。
俺たちはガキンチョの頃から「命の重さ」なるものの大切さを叩き込まれてきたわけじゃんか。
そして、まるでそれが真理であるかのごとくに、その価値観を否定することもレアだと思う。
でも、命の重さは平等ではないという現実がある。
その命がもたらす影響力はめちゃくちゃ個人差があるからね。
その前提で、あんたもちょっと考えてみてほしいんだよ。
子どもたちに「命の重さ」ってのをどう伝えるのが良いんだろうって。
ヒトに限らず、動植物を含めた多くの命に敬意を払うって行為はなんとなくだけれども、間違っちゃいないと思う。
毎日の食事で「いただきます」と言うのだって、その命をいただいていると言うことを認識するためだと子どもに伝えるのは大切だと思う。
でもその命が平等には重くない。
ならその「軽い命」という存在についてどう伝えれば良いんだ?
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは命の重さってやつをどう言語化していけば良いんだろう?