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進撃の巨人が突きつける俺たちが奪われているもの

あんたは進撃の巨人のアニメがいよいよ完結にまでたどり着いたことによって、多くのヒトが改めて進撃の巨人という物語について語り直している様子を眺めているかい?

俺はマンガでも進撃の巨人を楽しんでいたので、アニメを改めて見たときに「おお、あのシーンをこう表現するのか」とか「あのセリフがなくなっているな」とかそう言う比較みたいな楽しみ方も出来たんだよね。

で、改めて考えるわけだ。

進撃の巨人という物語が存在した意味ってなんだろうかってね。

今回は進撃の巨人という作品で用いられた表現が俺たちに残したものについて考えてみる回だ。

ちっと俺たちの中に残されたカケラみたいなものを拾い集めてみようぜ。


俺たちが感動する物語

俺たちの身の回りには星の数ほどの物語がある。

アニメに小説にドラマに映画。
なんなら宗教や政治や歴史なんて物語もある。

そんな物語の一つ一つが俺たちにいろんな形で影響を及ぼしているってのがあると思うわけだ。

そんな影響の一つに「感動」ってのがあるよな。

物語がもたらしてくれる感動ってのはものすごく価値を感じさせてくれることがある。

いろんな感動があると思うけれど、その一つに「夢を追い求める姿がもたらす感動」ってのがあると思うんだ。

実に多くの艱難辛苦が主人公に襲いかかるけれど、その一つ一つに立ち向かい、諦めずに前を向く姿勢ってのは感動を呼び起こすよな。

進撃の巨人における「前を向く」という行為

で、ふと考える。
進撃の巨人の主人公であるエレンは「前を向いていた」んだろうか?

物語の作り的に見ると、エレンは進撃の巨人の力で過去と未来を把握するまでは、目の前に起きる課題に無心で取り組んでいたように見える。

「駆逐してやる!」

その対象がどんどん入れ替わっていくけれど、目の前にいる憎しみの対象に全力で立ち向かっていく。それがエレンというキャラクターだったと思う。

そして、進撃の巨人の力により、その「目の前」というものが過去と未来と現在が渾然一体として立ちはだかることになる。

その瞬間、エレンにとって「目の前」に居たのは憎しみの対象ではなく、「進み続ける」ことを阻害する要素に成り果てた。

この瞬間にエレンは「前を向く」ということがものすごく難しい状況に追い込まれる事になったわけだな。

なにしろ自分にとっての世界は前も後ろもなく、「ただそこにある抵抗」としての「目の前」があるだけって状況なんだもんよ。

そう考えるとエレンから「憎しみ」を奪った進撃の巨人の力ってのは、エレンから「夢」を奪い去ったって捉える事も出来るように思えないか?

「今」という価値

言い換えるなら進撃の巨人の力はエレンから「今」を奪ったって言えるわけだ。

この「今」を奪われるってのがどういう意味を持つのか。

俺はふと手塚治虫さんの「ブッダ」の一節を思い出したんだよな。

ずっとたどっていくがよい だれもかれもひとり残らず みんな 不幸なのだ。この世に幸せな人間などありはしない

出典:ブッダ

思うに、「幸せ」ってのはさ。
「今」にしか現れてこない感覚だと思うんだよ。

だって「過去」はもう過ぎ去ってしまったことで、そのときに感じていた多幸感を「思い出す」ことはあっても「味わい直す」ことは出来ないじゃん。
逆にフラッシュバック的に過去に経験した辛い感情が蘇ってくることはあるんだよな。
実に不均衡だ。

そして「未来」は基本的に不確定なことだから、基本的に「期待感」みたいな幸せ単体で味わうことはほぼ無い。
不確定要素がもたらす「不安」と必ずセットで感じられるものだよな。

唯一「今」だけが幸福をシンプルに味わうことの出来る断面を俺たちに与えてくれているんだと思う。

そして、たぶんその断面を拾い集めるってのが俺たちが生まれてきた意味ってやつなんだろう。

得てしてこの考え方は享楽的という言葉に集約されることが多いと思うけれど、過去と向き合うのは自分の失敗の図書館に魂を浸すが如くの行為になる事が多いし、未来への不安は常に俺たちを悩ませている。

だからせめて「今」に救いを求めるってのは、決して後ろ向きなことだけじゃないと思うんだよな。

そして、進撃の巨人という物語は「過去」と「未来」を押し付けられて「今」を失った男の物語だ。

これさ。
情報化社会と呼ばれる今を生きる俺たちの写し絵のように思えないか?

膨大な情報の蓄積は過去の失敗を忘れることを許さず、より正確な未来を予測しようとして「今」をすりつぶし続けている。

なあ、あんたはどうだい?

進撃の巨人の物語が俺たちの中に何を残したと感じている?

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