発信の工夫
あんたにも自分の発信に対する反応をもらうことがあるかい?
もうさ。
えげつなく嬉しいやつじゃんか。
コメントもらったり、いろんな手段で反応もらったり。
そのコメントでも自分の考えの外の話をしてもらったり。
あのさ。
俺のnoteに対してTwitterで反応もらったのよ。
この方から。
俺の発信の文体が心地よいって言ってもらえたのよ。
なあなあ。
あんたがそんな事言われたらどうするよ?
泣いちゃうやつじゃんか。
今回は自分の発信を振り返ってみる回だ。
自分の発信の形ってやつを振り返ってみようぜ。
自分の意思での文体
俺がこの書き方にしてみたのはお手本があるんだよね。
昔、長瀬智也さん主演でドラマ化されたほうじゃなくて小説の方ね。
あの主人公マコトの年代を分け隔てなくホントにフラットにコミュニケーションする表現がスキなんだよ。
この小説って決まって読み手に語りかけるように始まるって感じになっているんだ。
その表現ってのがこの主人公マコトって存在感を体温のこもった存在にしている様に感じたんだ。
そこで思ったわけよ。
ああ、俺の存在を「そこにいるやつ」って感じてもらえたら良いよなってさ。
なので、俺はあんたに語りかけるように書き出して、あんたに問いかけるようにして終わっている。
つまりはあんたとともに在りたいってこったな。
「オモロイ」を眺める
池袋ウエストゲートパークという作品は池袋という非常に限定された空間で貧困層という視点から世の中をえぐり出している作品だと思う。
俺自身は裕福じゃないけれど、貧困層という観点で世の中を眺めているわけじゃないし、まるきり池袋ウエストゲートパークをマネッコしたいわけでもない。
なら、俺なりの視点で世の中を眺めたものを発信したほうが良いよな。
その視点ってのが何か?
「オモロイ」だよ。
作品の表現するテーマについてオモロイと感じたらそのことを考える。
政治の理不尽を見てオモロイと感じたらそのことを考える。
仕事の難儀さを実感してオモロイじゃねえかと感じたらそのことを考える。
ヒトが感じた何かに対しての発信をオモロイと感じたらそのことを考える。
俺にとってオモロイってのはウキウキワクワクって感覚だけじゃなくて、難しいことや超えられそうにない壁みたいなものも含まれる。
要するに生きてるって実感を伴える何かってことなのかな。
オモロイと思うことが出来ていない困難
そうと言っても、すべての困難がオモロイわけじゃない。
俺にとってオモロイと思うことが出来ない困難の一つに人間関係のもつれってのがある。
仕事でもプライベートでもオッサンともなれば多くのヒトと仲違いしてきた。
そのどれ一つとっても、思い出すだけであの嫌な空気が自分をまとりつく様な感覚が俺の体を包み込む。
なんで俺はこのことをオモロイと思えないのか。
たぶん、俺がオモロイと思うことの源泉がヒトだからなんだろうな。
あのヒトの作品はオモロイ。
あのヒトとの仕事はオモロイ。
あの政治に対するあのヒトの意見はオモロイ。
あのヒトの感じ方はオモロイ。
ところが、ヒトとの仲違いってのはそのヒトの実態を俺が見えない状態に追い込む。
俺自身が相手のヒトとの間に見えない壁みたいなものを作ってしまうし、相手のヒトも同じように壁を作る。
そして、その壁は感情によって作られるので論理的に崩すことが極めて難しい。
どんだけお互いのオモロイを交換したほうが良いって理屈があっても、その壁を崩す道具を持っていない感じ。
この壁の存在だけはオモロイとは思えないんだよね。
「オモロイ」を眺める角度
ならせめてオモロイと思えたことを発信していった方がよくね?
そう思って日々こんなふうに書いてみているわけだけれども、単純に「SPY×FAMILYオモロイよね~」って言うだけじゃ「そだね~」ってロコ・ソラーレの掛け声をマネッコするだけであんたとの会話が終わっちまう。
そうならないためには何が必要なのか?
俺の場合はもともとの世の中の見方が結構特殊っぽい。
斜め下から眺める感じ?
ひねくれているってより、立っている地面の位置と角度がヒト違う感じ。
ならそのことを活かして何かを表現すれば「そだね~」では終わらないかもしれない。
大体言っていることはわかるけれど、あんたの中に「ん?」って違和感を生むことが出来るかもしれない。
あんたと考えるってオモロイを共有できるかもしれない。
なあ、あんたはどうだい?
あんたの発信はどんな工夫を込めているんだい?
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