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当たり前の「愛」

あんたは感謝ってことについて考えることがあるかい?

感謝って大事だよなぁとか、全然その言葉単体だと誰にも届かない感じのことを考えたりするけれども、実にこの感謝って感情はどうやって起きるのかってのが説明しにくいものでもあると思う。

そんなことをふわっと感じさせてくれたのがこの配信なのよ。

YURIさんは実に多くの感情を揺り動かせてくれる配信をしてくれている御仁だ。

noteはこちらね。

まあ、気になったら聞いてよ。
損は絶対しないと思うから。

今回は当たり前と感謝について考えてみる回だ。

ちっと、俺らの周りにある当たり前について考えてみようぜ。

ヒトという種族にとっての子どもという存在

まずYURIさんは、ご自身がお母様に言われた言葉にショックを受けたってことを言ってくれている。

シチュエーションとしてはお子さんが泣いているときに「オムツを変えるね」って言葉をご自身のお母さん(お子さんにとってはおばあさん)に言ったんだそうだ。

それに対してご自身のお母さん(お子さんにとってはおばあさん)に「当たり前じゃないの」と声をかけられたそうだ。
※おばあさん表現のしつこさ失礼

そして、その「当たり前」という表現にYURIさんは違和感を感じられたってことを発信してもらっているんだ。

これを聞いたときにストレートに思ったのは、ヒトって種族の生き物としての特性ってやつだった。

ヒトって種族は脳みそを大きくすることで種としての存続を実現してきたってのがある。

ところがヒトの体の構造的に考えると、他の生き物のように生まれた瞬間に行動が出来るくらいの成長をさせた状態で生むことが出来ない。

頭の大きさから逆算すると産道が狭すぎるんだよな。

それを解決するためには、巨人になるか未熟児で出産するかしかなかった。

巨人になるには食料の確保が難しすぎたから、ヒトという生き物は未熟児でヒトを産んで、その産後生存率を下げてでも多産でそれを補うって方法しか取れなかった。

その結果、ホモ・サピエンスは未熟児を多産で補うって選択を生き物として選択した。

生物としてのヒトが迫られた選択ってのがそう言う事情だったってのが俺の認識なんだよな。

当たり前の愛情

ところが、ヒトという生き物が社会と言う構造で自らを守っていくと言うカラクリを手に入れた瞬間、実に複雑な話になってきた。

つまりは、社会って構造が求める「何か」と個人が求める「何か」ってものに歪みが生じるってことがある。
その歪みを矯正するために、それまで当たり前だった「愛情」ってやつがいつの間にか「義務」って言葉に置き換えられる。

さっきも書いた通り、ヒトって生き物は未熟児である子どもを守ることを前提とした生き物だ。

その前提を「愛情」という個人の感情で収めてきたのが最初だったと思うんだけれど、社会と言うシステムはその「愛情」を「義務」に変えてきたと言う側面があるってことね。

言い換えれば「愛すること」は「当たり前」のことって言われる世界ってことだ。

おいおいおい。
それって愛を貶めてやしないか?

愛だろ、愛

じゃあ、愛ってなんだ?

子孫を残すためのシンプルな生き物としての仕組まれたシステムなんか?

それを是とも否とも言える根拠を俺たちは持っていない。

でもだ。
それでもだ。

俺は妻を愛している。
俺は息子を愛している。

その「感情」は確かに俺の中に存在している。

その感情が俺の意思によって存在しているわけじゃないのは間違いない。
何しろ「俺がそう思おうと思って」その感情を維持しているわけじゃないからだ。

シンプルにスキだからスキ。

ホント、根っこはそれだけなんだよな。

子孫を残したいという欲求はそこには介在していないんだよ。

YURIさんのお母さんの「そんなの当たり前でしょ」という言葉。
それですら、もしかしたら愛なんじゃなかろうか。

ヒトという生き物が子どもを保護し続けていると言う前提で作られた社会。

その社会でヒトが生きていくためには子どもを保護するという行為を「当たり前」として行くって認識を共有していかないと異端視されてしまう。

そんな迫害から娘を守りたい。

そう言う気持ちがもしかしたらあったのかもしれないと思ったんだ。
もちろん、俺の想像でしかないけれどね。

ただ、当たり前って言葉がヒトを傷つけることがあるってのは忘れちゃいけないことなんだとも思う。

なあ、あんたはどう思う?

愛情を当たり前と言う言葉は、俺たちを傷つけると同時に守る言葉なのかもしれないって思えるかい?

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