悪の美学と俺たちにとっての美
あんたも美学ってキーワードに思いを馳せることがあるかい?
様々な物語で表現されている美学。
特に悪役の美学ってのは物語の価値を決定づけるほどに重要な要素だよな。
ガンダムにしろヤマトにしろ悪役の美学無くては物語が成立しない。
中でも最近見直した物語の中でこの悪役の美学がやっぱり際立ってんなぁって思ったのがあったんだよ。
その物語に冠された名前は「HELLSING」。
今回はHELLSINGを題材に美学について考えてみる回だ。
ちっと俺たちが憧れる美学について考えてみようぜ。
HELLSINGの悪の美学
数多くの悪役が出てくるHELLSINGだけれども、そもそも主人公が正義ってわけじゃない。
ってかそちらこちらで表現される主人公アーカードの所業はどっちかって言うと悪人のそれだ。
だけれども、アーカードに敵対する存在も絶対に正義じゃない。
もお、なんつーんだ。
この物語って悪人しかいなくね?って感じの物語だ。
ちょっと善人っぽいセラスですら、絶対的な正義ではないように描かれているしね。
そもそも善悪って基準で物語が構成されていないって印象が強いんだよ。
で、そんな登場人物がひしめく中。
ひときわ存在感を輝かせるキャラクターがいる。
少佐だね。
もぉね。台詞回しが神がかっている。
平野節全開って感じだね。
よろしい、ならば戦争だ
我々は満身の力をこめて今まさに振り下ろさんとする握り拳だ
だがこの暗い闇の底で半世紀もの間 堪え続けてきた我々に ただの戦争では もはや足りない!!
大戦争を!! 一心不乱の大戦争を!!
出典:HELLSING
どうよ?この振りキレっぷり。
悪役の美学ここに極まれりってやつだと思うやつだ。
俺たちが感じる美
でもさ。
この少佐をベースに考えてみると、俺たちは何に美を感じているんだろう?
狂いっぷりとか色々あるとは思うんだけれども、やっぱり信念だと思うんだよな。
その信念の正しさなんてものは美とは関係がなくて、ただただ純粋な思いとその信念にまるで殉教者のように自らの命を燃やし続ける姿。
それに俺たちは美を感じているんじゃないか?
そう考えるとヤマトのデスラーでもガンダムのシャアでも同じ要素が見えてくる気がする。
どのキャラクターも自らの思いに身を捧げているという点で俺たちは美を感じていると思うじゃん。
俺たちの生活での美
そこで、フト考える。
俺たちは美しく生きているんだろうか?
何かに身を捧げるほどの思いをもって生きているんだろうか?
とてもじゃないが、今の俺にはそんなことは言える気がしない。
俺は美しくは生きていない。
それで良いのか?
いや、良かないさ。
でもさ、俺の中にある「思い」なんてものは日々の生活の中で摩耗しきってしまっていて、俺自身がその原型を思い出すことすら困難な状態なんだよ。
いや、摩耗しているんじゃないのかもしれない。
俺の中にある思いに、日々の生活でこびりついてしまった何かによって、俺の思いに俺自身が触れることが出来なくなっているって方が感覚としてあっている気がする。
そのこびりついてしまった何か。
その何かによって俺の心は柔軟性を失い、それによって俺は美しく生きられていない。
ところが同時に俺の心はその何かによって守られているってのもあると思う。
柔軟性を失っているからこそ辛い現実に対峙していける部分もあると思う。
ああ、そうか。
悪の美学。
そこの美の本質ってのは「儚さ」ってことなのか。
まるで心がむき出しになっているような悪のキャラクターの行動は、見ていて本当に儚いんだ。
進撃の巨人のライナーなんて、メチャクチャわかりやすく儚いじゃんか。
だとすれば俺たちは美しく生きるなんてことを目指すことは出来ない。
それよりも強かに生きなければ誰も守れないし、幸せにも出来ない。
そうか。もしかすると心にこびり付いた何かは、生きるため、守るための何かでもあるのかもしれないね。
なあ、あんたはどう思う?
俺たちは美しく生きることを諦めて、強かに生きる覚悟を決められると思うかい?
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