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2021/10/13

カチカチ、かちゃかちゃ、カチカチ

パソコンをつかってお勉強する方法を覚えた。
今は問題集を買わずとも助けてくれるアプリやサイトが溢れている便利な時代です。youtubeは愛用の聞き流しがあって前からお気に入り。新しくお世話をしてもらっているサイトは、正答率だしたり問題1つ1つに付箋つけたりできてすばらしい。

ぐちゃぐちゃ、さらさら、ぴーっ

でも結局は書き続けて記憶に残したり、まとめノートを作ったりする方が自分には合っているみたい。まとめノートは最強の攻略本。
問題集もテキストもノートも持ち歩くと重たいけれど、それだけ愛着もわく。

とにかく今回は色んなお助けアイテムを駆使して次のステップに進みたい。合格が欲しくなっている。
ここ何週間かは勝負!と思って集中リピート生活。

でも勉強ってゴールがないなと思う。
合格も正解もひとつの区切り。
それのすべてではないし、知れば知るほど知らないことが浮き彫りになって不安になる。この気持ちに襲われることが深さにつながっていく。尊い種類の不安。でもとっても苦しい。

あわあわ。

解放されたいと思ってしまうのも本当の気持ち。
ニンゲンって矛盾した生き物です。
この不安と共存するためには必死にもっと知ろうとこころをふるいたたせるしかない。
この不安を「幸せ」と感じながら、わくわくできるこころの余白をもちたい。この余白をいつもつくりだせたら素敵やなあ。
締切や評価のない勉強はわくわくするかしら。(自己評価はたいせつにしていきたい)
でも締切や他からの評価がないとがんばれないのがわたしの弱さです。(おまけくらいに思って生きたい)
1番たいせつなことは、こころの声を聴くこと。ね?


…みんながよく言う「テキトー」「休みなさい」「頑張らない」は、この種類の不安から遠いから楽になるけれどいいことなのかなあ?わたしはイヤです。
結局そんな生き方を選んだわたしをわたしが認めたくないループにフォール。
何度もかさぶたをはいでいる。しっくりこないな。
きずあとは消えずに、ばってんが増えていく。

頑張る!顔晴る!が理想的。

ふーあんはつづくーよ、どーこまでもー。

わたしの人生はそれに尽きる。
よっしゃ!倒した!と思っても、次の不安が現れる。
ちっちゃいスライムくらいならいいんです。
こんなわたしだってHPギリギリでも、MPも少しはたくわえている。ぱふぱふするふわもちは持ち合わせていないけれど()
不安たちを「何かプラスのもの」に1つ1つ化かす魔法をゆっくり育てていきたい。

不安たちはわたしの歪んだメガネフィルターによって、勝手に指定した義務となり、ボスキャラのごとく立ちはだかってくる。
お受験!きちんとした生活!お仕事!ご自愛!

自分の引き出しを豊かにするための勉強。
健康な体を維持するための規則正しい生活。
人との関わりや社会とつながるためのお仕事。
わたしを優しく包むためのご自愛。

…だったはずなのに。
優先順位がつかない。どれも大切で。
そしたら知らぬ間にそれは義務になって、
逃げたい。
0か100か白黒思考の自動思考。

ピーピーピーピーピーピーピーピーピーピー
赤信号です。SOS。でも走りきりたい。
青信号になるのを待つ理由が必要です。

少し持ち合わせているMPをフルに活躍させる。

今日のわたしはnoteを書く時間をとる。
今日のわたしは横になって、かまってちゃんを聴く。
今日のわたしはだいすきな林檎のアイスを食べる。

ちょっとだけ穏やかなきもちで信号を待つ

たらたらったたたー\( ˆoˆ )/
わたしはMPがあがった。

…こんな気分で溶けかけのアイスとともに、ロックンロールは鳴り止まない中で、ごろごろしながらnoteを書いてる。
今書いてることはなんの目的もないし、伝えたいことでもないけれど、わたしのための時間を魔法でつくっているんだ。これでわたしは赤信号を渡らない。ポリスマンのお世話になる必要もない。わたしはわたしのMPをあげることにも成功。勇気を出して休んでいるってのはおかしな話やけど充実した時間。このあとはちゃんとお勉強します。

noteの更新がとまっていた理由は2つある。
1つは、試験の勉強をしていたこと。
2つ目はまとまって書く時間をとれなかったこと。
下書きとして3つの書きかけが残っていた。(いつも一気に書いて更新していたので、そんな機能知らなかった)今まで幾度か書こうとして書き終われなかったわたしの言葉たちが、知らぬ間に積み重なっていました。それを読んでいたら、紙の日記と同じように振り返りができた。恥ずかしくなって、今はその気持ちはいいかなって消しました。気にいらないレポートデリート現象を思い出した。(そのわりにTwitterには散乱とした気持ちをまあまあひとりごとしている)

紙の日記といえば
日記をつけることはとてもいいことだと改めて思った。天馬さんが紙の日記書いてQOLあげようって言っていたけれど間違いない。

お勉強をしている時、昔使っていた本や教科書を見たくなって探したのだけれど、ちょっと寄り道。
酸素のない生活をしていた頃や、少し息継ぎを覚えてきた頃の紙の日記を見つけて、読み返した。
字の動きや紙のよれからも、よみがえる記憶。
汚いきもちがたくさん綴られている中、わたしのかすかな生きることへの希望や願いが何度か書かれていた。

学校に戻りたい
手芸教室を毎月ひらきたい
作業療法に行く頻度を増やしたい
習い事か勉強をしたい
またみんなでテニスとバンドをやりたい
カラオケとお買い物と映画にでかけたい
みんなのライブと演劇を観にいきたい
綺麗な景色をみたい
免許をとりたい
とりあえず働きたい
おしゃれも許して楽しみたい

今のわたしは、小さな希望がみえている。
(わたしにとっては小さくないけれど)
(大きすぎる)
この希望を書いた頃の「わたし」たちは
今のわたしを想像していたのだろうか。
どんな形にせよ、叶った夢もあることに震えて、紙の日記が涙でしわしわした。

わたしを軸とした評価ははなまる。
やっぱり自分の変容を感じるには日記はとてもいい。毎日書かなきゃいけないと思っている(義務化)から生き苦しいのだと言われたこともあるけれど、書くこと、吐き出すこと大切だと思う。
たまには言葉にできないこともあるけれど、それはそれで、言葉にならないと筆を止めて、黒いぐちゃぐちゃにしておけばいいと思う。
それがその時のわたしだ。
その時聴いた音楽を書いてもいいし、絵を描いてもいいわけ。表現はどんな形であれ残しておきたい。
いつか読み返して感じる日が来るから。
このnoteもいつか寄り道する時があるかも。
何を感じて、何を思うのかなあ。

永遠の日が過ぎた。終わるから鬱くしい。
ただ隣にずっとあると思っていた空気が消えている。
それでもわたしは息をしている。
もうわたしにとっての空気ではないという気づき。
大丈夫。わたしは強い。
ただまだ頼ってしまう症状たちがあり、それを憎み、愛し、消えろと怒り、ありがとうと泣く。
もうやめたい。愛ってなんなんだろう。

秋はだいすきな季節だ。京都が恋しい。
秋アルバムというタグがあったので、
ちらっと懐かしむ。

綺麗でしょう〜?ライトアップ。
来年は紅葉をみにいけるかな?

秋めいてきた少し前に撮ったお空の写真がとても綺麗。
秋のうろこぐもと夏のもくもくっとした雲が半分にわかれて、そこに太陽というお星さまが光ってた。


空やお花、京都にいた頃の紅葉に
こころが揺らぐ自分はまだいい感じ。


しあわせだから生きるのではなく、
生きるからしあわせなのだということ。
感じろ。感じろ。生きろ。
わたしはゆっくりとわたしのペースで歩きましょう。
ちゃんと今日みたいに
青信号を待ったり、寄り道したりしてね。

宝もののわたしの日記をもとに仕舞って
またカチカチやりに行ってきます。

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