
生産性は「戦略」が9割
ネットの記事でもよく話題に上がるのが、日本の生産性の低さである。「なぜ日本の生産性は低いのか?」という主題のもとに「どうしたら社員のスキルをアップさせて、業務を効率化できるか?」みたいなことが論じられる。
ただ、そうした記事を読んだ後でいつも思うのは「企業の生産性みたいなものは、本来個人の能力で左右されるものなのだろうか?」ということだ。
つまり、「企業の生産性」のような大局的な問題が、「一個人の能力」程度で左右されるものなのか?ということだ。まあ、確かに各社員の生産性が 10% ずつアップすれば、企業全体での生産性も 10% ずつアップする…というのは、非常に自然な考え方だが、企業間の競争をある種の「戦争」のように捉えることにすれば、優れた戦略があるときには、1000人の兵隊がその3倍の兵力を持つ軍隊に勝利することもあるし、逆に戦略が悪ければその半分の兵力しか持たない軍隊にも負けてしまうこともある。
そして、こうしたことを「生産性」という言葉で読み替えてみれば、より少ない兵力で敵に打ち勝つことができれば、それは「より生産性が高い」ということになるのではないかと思っている。つまり、自軍の3倍の兵力を持つ軍隊に打ち勝つことができれば、生産性は3倍ということだし、逆に半分の兵力を持つ軍隊に負けてしまえば、生産性は半分以下ということになる。つまり、生産性は「戦略」次第ということだ。
つまり、企業の生産性は戦略次第で何倍にもスケールし得る。
そうした文脈において、一人ひとりの生産性を向上させるというのは凄く意味があることなのか?と考えてみると、実はそれほど重要度がないのではないか?と思っている。せっかく、一人ひとりの社員が多少頑張って、作業を効率化したところで、節約した時間を意味のないプロジェクトに投入することになれば、そうした個人の努力は全部水の泡になるのではなってしまう。
指揮官の給料はなぜ高いのか?
そう考えると、指揮官の給料が高い理由も納得できる。つまり、指揮官にはそれだけ多くの責任と義務が背負わされている。指揮官の能力次第で、自分の指揮下にある兵士の能力を何倍にも役立てることもできる。つまり、レバレッジがかけることができる。100億の売り上げを 110億に増やすこともできれば、120億にも増やすことができる。だからこそ、優秀な指揮官には多くの報酬を払う十分な意味がある。ただ、それはどんな指揮官に対してでも…ということではなく、優秀な指揮官に対しては…ということだけれども…
では、そうした優秀な指揮官をどう育てるべきなのだろうか?
指揮官をどう育てるか?
人から聞いた話ではあるけれども、米国では企業で人を切るときに上の方から人を切るらしい。例えば、企業のある部門の業績が悪くなってしまったときに、日本だと人件費を削るためにまずはアルバイトから削ろうとか、契約社員の更新を諦めようとか、そういう方向で人員が整理されると思うのだが、米国の場合だとその部門の責任者がまずクビになり、それに合わせて働きの悪い社員がクビになる…という形で人員が整理されるらしい。
つまり、下から切るのではなく、上から切るのだ。
そうすることで、指揮官のレベルの人材の流動性が高くなり、より優秀な指揮官のみが生き残るような仕組みになっている。逆に、日本の企業では指揮官レベルの職位にあるものであっても、プロジェクトの成否について責任はあまり強く問われることはなく、多少失敗があったとしもすぐに解雇されたりすることはあまりない。正社員は解雇しにくいからだ。
そして、おそらくこれが原因で、日本では指揮官レベルの人材の流動性が低くなり、あまり指揮官には向いていない人がいつまでもそうしたポジションに残ってしまうことになる。お粗末な指揮官のお粗末な戦略のもとで沢山の兵士が無駄死させられているという状況が、おそらく「日本の生産性の低さ」の元凶なのではないかと思っている。
プロジェクトの成否の原因は?
ただ、米国で「上から切る」という考え方が取られているからと言って、それが必ずしも正しいと限らない。プロジェクトの成否に指揮官が重要な役割を果たしていることは疑いようのない事実ではあるけれども、それを指揮官の能力だけに還元してしまっていいのか?ということだ。
指揮官の能力も重要だけれども、たまたま景気が悪かった。あるいは、たまたまトレンドに乗っかった。あるいは、たまたま良いお客さんに当たった。たまたま能力の低い部下ばかりが集まってしまった。さまざまな理由で、プロジェクトは成功したり、失敗したりする。つまり、プロジェクトの成否を後から振り返って分析するには不確定要素が多過ぎるということだ。
では、こうした不確定要素が多い状況で、因果性のようなものを調べるのには、どういうことをすればよいのだろうか?それが A/B テストだ。
A/B テスト
データサイエンスの世界では、こうした不確定要素の多い環境の実験において、「A/B テスト」という手法をよく使う。ある施策(例えば、クーポンなど)の効果を評価したいけれど、不確定要素が多過ぎて「売上」などの要素を直接モデル化したりするのが難しい場合に、こうした手法が利用される。
A/B テストの考え方は非常にシンプルで、例えばクーポンの効果を評価したい場合は、クーポンを配った場合と、配らなかった場合を比較して、その効果を見る…というものだ。もちろん、1回限りだと「たまたま」ということがあるので、そうした影響を排除するために、例えばタイミングを変えて何度も実行する…といったことも行う。これが A/B テストの考え方で、何度も評価を行うことで、「たまたま」の影響を排除していく…というのが基本的な考え方だ。
そして、この「A/B テスト」が指揮官の能力評価にも使えるのではないか?というのが、私が個人的に考えていることだ。
つまり、指揮官A と指揮官B で幾つかプロジェクトを実行させたときに、より成功が多い方をより能力が高いものとして決定付けることができるのではないか?ということだ。無論、プロジェクト毎にその難易度に違いがあったり、景気などの外部的な環境の影響を受けることもあるので、完全に「たまたま」を排除するのは難しいかもしれないのだが、まあ何度かやればそうした偶然の影響は段々と排除していくことができる。
そして、米国では人員整理をする際に「上から切る」ことで、社会全体の規模で「A/B テスト」のようなことを潜在的に行っているのではないか?というのが、私の個人的な仮説だ。
成果主義と稲盛さんの思想
では、こうした「成果主義」のような考え方をあらゆる社員に一律に適用するのが正しいか?と言えば、そうとも言えないと考えている。
実際、こちらの稲盛和夫さんが書かれた記事では、やはり成果主義だけを一律に適用するだけでは社員がやる気を失う…ということが述べられていて、成果をそのまま賃金に結び付けるようなやり方はよろしくない…という趣旨のことが書かれている。
その代わり、指揮官に相当する役職は排除して、「責任者」という風にして、よりショックが少ない形でより簡単に指揮官を交換することができるようにしようと言っている。こうしたやり方で、指揮官の流動性を高める…というのは、正社員を解雇しにくい日本では非常にうまいやり方だと思う。
いままでの日本の企業だと、課長・部長といった役職は、何年(あるいは何十年)もかけてやっと昇進する…という感じで、この「昇進」がどうしても重いイベントになってしまうのだけど、もっと軽くていいんじゃない?というのが、おそらく稲盛さんの主張なのではないかと思っている。
昇進したときには家族みんなでお祝いして、降格したときには飲み屋で一人でヤケ酒をあおる…みたいに、昇進や降格を重くしてしまわずに、指揮官のポジションは単なる「役割」として位置付けて、もっと意味の軽いものにする…というのが、この考え方の根底にあるものだと思っている。
一方で、この記事では「一般の社員の給与は成果のようなものに直接リンクさせるのではなく、資格のようなものとリンクさせよ」ということも言っている。私なりに稲盛さんの主張を解釈するとこんな感じだ。
■ シンプルな成果主義は止めよ
■ 指揮官のポジションの流動性を高めよ(指揮官は成果に責任を持つ)
■ 一般の兵隊は、スキルで給与を決めよ(兵士はスキルに責任を持つ)
指揮官をどう選ぶか?
では、指揮官をどう選ぶべきだろうか?経験者であれば、その過去の実績がわかれば、それを使って評価をすることができるが、それがわからない場合はどうしようもない。
また、未経験者の中から選ぶとしても、過去の実績がない訳だから選びようがない訳だが、実際日本の企業の中で未経験者の中から指揮官を選ぶとしたら、おそらく次のような基準を元に上司の感覚で選ぶのが普通だと思う。
■ いまの仕事がうまくできているか
■ リーダーにふさわしそうな性格か
■ 上司の言うことをよく聞きそうか
■ 将来的に自分の地位を脅かさないか
■ 学歴は十分か
■ 性別(育児等で途中で辞めたりしないか)
■ 年齢は十分か
ただ、このどれもがよいリーダーを選ぶのに強い因果を持っているとは限らないのではないだろうか。
良いプレーヤーが常に良い指揮官になるとは限らないし、学歴や性別あるいは年齢が指揮官の適正に直接リンクしているとも思えない。つまり、これらの指標はあまりあてにはならず、結局のところ人間のバイアスに支配されまくっている…というのが正直なところだろう。
そして、学歴がないから、若いから、女性だから、ちょっと生意気そうだから…と言ったあやふやな理由で、こうした人材を指揮官の候補者から外してしまうのは、未来な優秀なリーダー(未来の諸葛孔明みたいな人)をドブに捨てているのと変わらないかもしれない。
こうした人間が無意識のうちに持ってしまっているバイアスをデータで打ち破るという痛快なストーリーを野球を題材に映画に仕立てたものが、この「マネーボール」という映画だ。面白い映画なので、まだ見たことがない人は是非見て頂ければと思う。
まずは小さな船から
…とは言っても、いきなり未経験者に大きな船を操らせるのは危うい。
「若くて優秀な奴にチャンスをやろう」みたいなセリフをよく聞くが、「優秀そう」と思った人材が本当に指揮官として優れているとは限らない。そうした人材に、いきなり大きな裁量権を与えてしまうのは非常に危ういのではないだろうか。
いきなり大きな船を操らせるのではなく、まずは小さな船からスタートして徐々に大きくしていくのが適切だろうと思う。そして、その際に基点となるのは「一人チーム」だ。
まずは、リーダーとしての可能性を探りたい人物に十分な裁量権を与えて、一人で自由に動いてもらう。つまり、「自分自身のリーダーが自分である」として、プロジェクトを遂行してもらう。そして、何個かプロジェクトが成功したら、一人だけ部下を付ける。そして、何個かプロジェクトが成功したら、更に部下をもう一人…といった感じだ。
つまり、成果が出たら、部下を増やせばよいし、成果が出なければ部下を減らせばよい…ということだ。そういった形で、成果に応じる形で裁量権を増減させてやれば、自然とリーダーに向いた人の裁量権が大きくなっていく。
そして、やはり人にはいろいろなタイプがいて、自分一人ではうまく仕事ができても、他人にうまく仕事を振れない人や、人を育てるのが徹底的に下手な人もいるので、そういう人には無理にリーダー役を押し付けずに、メンバーとして能力を発揮してもらうのがよいのだと思う。
また、ぱっと見ではリーダーに向いていそうな人なんだけど、何個やらせてもプロジェクトがうまく行かないことが多い…という場合も、おそらくリーダーには向いていない可能性が高いので、そうした場合もいつまでもダラダラと「育てる」は止めて、もっと他の人にチャンスを与えるのがおそらく正しい。
人間の「直観」というのも、ときには優れたツールとは思うのだけれども、常に人間には「バイアス」というものがあり、ときに「自分自身の直観を疑う」ということや、「自分を含めた人間全てがバイアスを持っている」ということを意識しておくのは、個人的に非常に重要なことだと思っている。
「こんな奴が絶対に良い指揮官になるはずがない!」と思っている人物が素晴らしいリーダーになることも十分にあり得るし、またその逆もあり得るのだ。何事も直観だけを過信するのではなく、「データを元に自分の直観を疑う」というのが、科学者だけでなく、全ての人に必要な感覚だと思っている。
「センス」って何だ?
おそらく、リーダーにはある種の「センス」みたいなものが必要だと思っている。「センス」という言葉も何だか曖昧な言葉だが、これはある意味「言語化・数量化しにくい人間の能力」を表しているものだと思っている。
データサイエンス的な言葉で言えば「潜在変数」的なものだが、これも普通の言葉で表現すれば「直接観測することは難しい未知の要素」のようなものだと考えてもらえばよいかもしれない。
理系的な脳みそでは、やはりこうしたものも何か「言語化」あるいは「定量化」できるもので必ず記述できるはずだ!とか、何か物理法則のような因果関係があるはずだ!感覚があるのだが、そうしたはっきりとした法則や因果では説明しきれないものも世の中にはある。
そして、こうしたよくわからない「未知の要素を含む問題」を扱う手法もちゃんと存在しているのが、データサイエンスの素敵なところで、それが「A/B テスト」のような考え方であったり、「潜在変数」のような考え方なのだ。
好きこそものの上手なれ
「良いプレーヤーが必ずしも良い指揮官になるとは限らない」…とは言ったが、もちろん良いプレーヤーが良い指揮官になる例もある。それがあの野村監督だ。
野球において、やはり捕手というのは試合全体を眺める位置にいて、司令塔的な役割を果たすポジションであるとは思うのだけど、実際には「全ての捕手が優秀な監督になる」訳でもない。
おそらく、野村監督が優秀な監督になれたのは、良いプレーヤーだったから…というよりは、勝利への徹底的な執着というか、執念のようなものがあったらかだと思う。そうでなければ、あのような面倒なデータ解析を野球に取り込む…といったことは到底できなかったのではないだろうか。なぜならば、データサイエンスは基本的にとても面倒臭いものだからだ。
よく「データサイエンスは前処理が9割」みたいなことが言われるが、まさにその通りで、まあ面倒臭いことが多い。そうした面倒なことができるのは「どうしても勝ちたい」とか「どうしても何とかしてあげたい」という強い想いがあるからこそできることで、逆にそれがないと最後まで辿り着けない。
そうした執着がない場合は、大抵適当な前処理をやって「あ~、ダメだ~」とか「前処理、めんどくせぇ~」とか「こんなの俺がやる仕事じゃない」とか言って諦めてしまい、結果が出ないまま「プロジェクト完了」になってしまうことが多いのだ。だけど、目標への徹底的な執着がある人であれば「あ~、前処理が違うのかな。データ一個ずつ見るか…」みたいな感じで、面倒なことにも喰らいついていくことができる。
データサイエンスの知識があまりないような人でも、「どうしても歩留まり」を上げたいとか、「どうしても売上を上げたい」といった強い執着のあ現場の人は、完全にゴールまで辿り着けなくてもかなり近いところまで肉薄していたり、鋭い洞察があったりして、やはり「執着」というのは大切なことなのだと思っている。
そして、「どうしても売上を上げたい」みたいな強い執着がある人であれば、どうすれば強いチームを作れるのか、どうすれば少ない作業量で売上を増やしていくことができるか?みたいなことを徹底的に考えることができる。そして、そうした「ゴール(勝利)への道筋を徹底的に考える」のが指揮官の大きな役割ではないかと思っている。
孫子の兵法
「戦いは時の運」みたいなことを言う人がいる。
戦いには沢山の「未知のファクター」があり、いろいろ考えても、結局は戦の勝敗がその時々の運によって左右される…というようなものだ。まあ、あれこれ考えるよりも実際に動いて、何度も試行を繰り返すうちに、指揮官の能力も上がっていき、段々と「良い感じ」になるよ…と。こうした考え方は、半分くらいは真実であるかもしれないけれども、やはり幾つかの欠点がある。
■ 未熟な指揮官が試行錯誤を繰り返すうちに、部下が沢山死ぬ
■ 指揮官が失敗から学習する保証がない(過去から学ばないことがある)
■ その場合、同じような失敗を何度も繰り返す
まあ、これは一番悪いパターンかもしれないけれども、「ゆっくり育てよう!」とか「前向きに行こう!」みたいなセリフの裏で、大量の兵士が無駄死にしてしまうこともある…ということだ。
また、孫子の兵法にこんな言葉がある。
勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝ちを求む。
(訳)勝利する軍は、まず勝利を確定しておいた後にその勝利を実現すべく戦闘するが、敗北する軍は、まず戦闘を開始した後に、勝利を追い求めるのである。
要するに、「戦いは時の運」じゃダメだということだ。指揮官の采配次第で、何千もの兵士を無駄死にさせることもあれば、ほとんど無傷で勝利を得ることができることもある。だとすれば、本当の戦闘の前にできる限りのことを考え、準備しておく…というのが、指揮官の役割ということになる。指揮官というのは、沢山の部下の命を預かる存在だからだ。
また、孫子にはこうした言葉もある。
善く戦うものは之を勢に求め、人に求めず、之が用を為す。
(訳)戦上手な者は、軍隊の勢を利用することに努めて、兵士個人の能力に頼らずに、軍隊を運用する。
つまり、戦う前には指揮官が徹底的に戦略を考えるが、一旦戦いが始まれば、そこからは勢いに任せて戦えばよい…ということだ。そして、一旦戦闘が始まってしまえば、そこでは個人の能力はそれほど重要視されず、組織として一体感を持って動けるかが重要なのだと言っている。
最後に
この記事は、自分なりに長年考えてきたことをまとめた文章だが、文系の人たちからすると「何をいまさら…」という感じかもしれない。ただ、理系の人間からすると、やはり「孫子」とか「ドラッカー」とか「カーネギー」とか、文系の人たちからするとあたり前で基礎的なものが意外に遠いところにあり、過去に自分の上司だった人でも「孫子」という言葉すら知らないような人も多かった。
この文章も幼稚なものに感じる人も多いと思うが、誰かが何かを考えるきっかけになれば幸いだと思う。最後に、文章の要点をまとめておきたい。
■ 個人レベルの生産性向上よりもはるかに重要なのは戦略
■ 良い戦略は兵士の力を何倍にもして成果を引き出してくれる
■ 良い戦略は企業の生産性を何倍にもスケールさせる
■ 故に、戦略に関わる指揮官の責任は重い
■ そして、給料も高い
■ 指揮官としてのポテンシャルは表面的なデータでは測れない
■ 実際にやらせてみる以外に正当な方法はない(A/B テスト)
■ 指揮官を社内でゼロから育てたい場合は、まずは小さな船から
■ その場合は、年功序列の考え方は捨てる(指揮官の流動性を高める)
■「役職」ではなく「責任者」という考え方へシフトする(※)
■ 成果主義を全ての社員に適用するのはあまりよくない(※)
■ 指揮官は、戦略とその成果に責任を負う
■ 故に、成果で評価されるべき
■ 兵士は、与えられたタスクの遂行にのみ責任を負う
■ 故に、タスクの実行に必要なスキルで評価されるべき(※)
※ は、稲盛和夫さんの記事より
…とは言っても、年功序列をベースとした人事システムを刷新するのはなかなか難しいと思うので、こういうことをやるとすればやはりゼロから新しい企業をつくるタイミングで適用することになるのだろうか…
この文章が、これからベンチャー企業をつくろうとしている人の参考にでもなればよいな…と思っている。