コラム「異教徒と如何に相対すべきか」こぼれ話(1):あの画像編
先日,というか2週間以上前に,所属先のサイトにコラムを掲載する機会をいただいた.「好きなこと書いていいから」という言葉を鵜呑みにしてほいほい書いてしまったものの,ネットの海の放流されてから初めて,こんなどの層に刺さるかもわからない,また要領を得ない文章が,インターネット知識人諸兄姉の慧眼に耐え得るものなのか不安になっている.以下は,その未練で書き散らしたコラムのこぼれ話である.恥の上塗りとも言う.
あのチェスの絵について
まずは,コラムのイメージになっているチェスの絵について.同僚からこの画像の子細について質問されたことに遡る.イスラーム教徒と異教徒との歴史研究の出版物に,また講演会のポスターに使用されるから,今回のコラムのイメージをつかんでもらうには手っ取り早いだろうくらいにしか思っていなかったが,改めてこの絵について,特にこの絵の人物をめぐる研究上の見解について,すこしまとめることができた.
この絵をめぐる基礎情報を提供するのは,Constable, Olivia Remie. 2007. “Chess and Courtly Culture in Medieval Castile: The ‘Libro de Ajedrez’ of Alfonso X, El Sabio.” Speculum 82 (2): 301–47である.上絵は同論文が対象とする『チェス,サイコロ,遊戯版の書Libro de ajedrez, dados y tablas』(以下,『チェスの書』)に収録されている.
『チェスの書』は1283年,カスティーリャのアルフォンソ10世Alfonso X(r. 1252-1284)が自らの最晩年にセビーリャで編纂を命じ完成させた.アルフォンソ10世といえば,「賢王el Sabio」として,地方語だったカスティーリャ語に教養語としての地位を与えたことで知られている.彼のカスティーリャ語事業には,ラテン語はもちろん,アラビア語著作の翻訳も含まれていた.「12世紀ルネサンス」として知られるアラビア語の翻訳事業は,アルフォンソ6世(r. 1065-1109)がトレドを征服した1085年を起点とする.アルフォンソ10世によるカスティーリャ語の重点化は,従前のユダヤ教徒とムデハルmudejar(キリスト教為政者の統治下に留まったイスラーム教徒)によってアラビア語からカスティーリャ語に,キリスト教徒によってさらにラテン語にという重訳プロセスの転換点となった.アルフォンソ10世が編纂を指揮したものとしては,非ラテン語初の普遍法である『七部法典Las Siete Partidas』や未完の史書『スペイン史Estoria de España』,『大世界史General estoria』があり,『チェスの書』もその一部である.しかし同書は,アラビア語からの翻訳ではなく,アンダルスやその他地域で流布していたアラビア語の伝承を収集し,壮麗な挿絵とともに編纂した著作である.
ちなみに『チェスの書』は,慶應義塾大学図書館に復刻され解説が付されたファクシミリ版が所蔵されている.それに関連して同大学の研究グループが『チェスの書』とアルフォンソ10世の関係や,そこに収録される挿絵が表す異教徒関係や実際の歴史的背景との差異について解説論文を出版している.瀧本佳容子 et al. 2022.「慶應義塾図書館所蔵アルフォンソ10世関連写本ファクシミリ版二作品解説:『聖母マリアの古謡集』および『チェス, さいころ, 盤上ゲームの書』」『慶應義塾大学日吉紀要:言語・文化・コミュニケーション』54: 75–96.
チェスを指すあの2人について
件の挿絵に戻ろう.これまでの研究において,ここに描かれる2人の男がキリスト教徒とイスラーム教徒であることは一致している.しかし,この2人が素性や両者の関係については見解が分かれている.コンスタブル(2007)は先行する理解として,1973年の国際チェスマスターでありチェス歴史家でもあるカルヴォRicardo Calvoの見解を挙げている.カルヴォによれば,左の人物がアルフォンソ6世Alfonso VI(r. 1072-1109),右の人物がセビーリャ小国のムウタミドal-Muʿtamid ibn ʿAbbād(r. 1069-1091)の使節であり詩人のイブン・アンマールIbn ʿAmmār(d. 1086)とされる.ムウタミドとアルフォンソ6世の関係は,1085年のトレド征服以降急激に緊張し,前者の要請によってユースフ・ブン・タシュフィーンYūsuf ibn Tashfīn(r. 1061-1106)率いるムラービト朝がアンダルスへと干渉することになる.カルヴォの見立ては,アブドゥル・ワーヒド・アル=マッラクシーʿAbd al-Wāḥid al-Marrākushī(d. 1250)の『マグリブ人による伝承要約の称揚al-Muʿjib fī talkhīṣ akhbār ahl al-Maghrib』によって伝えられるエピソードにもとづく.もちろん,このイメージはイスラーム教徒側に立っている.現実ではムウタミドは南下するアルフォンソ6世の勢力に押され,海を渡ってムラービト朝に助力を乞うたが,この挿絵の中ではイスラーム教徒がチェスで勝利していることから,マックラシーによる異教徒に対して優位を保つイスラーム教徒という構図が引き継がれている.
一方でコンスタブルは,この見解に対して疑問を投げかける.彼女の疑問は3つ.1つは,キリスト教徒がアルフォンソ6世ならば,どうして彼の服装がカスティーリャの伝統に沿った様式でないのか.コンスタブルは,『チェスの書』のうちアルフォンソ10世が描かれた挿絵を挙げているため,視覚的にもその比較は易い.例えば下絵のように,襟元の装飾や全体のシルエットに着目すると,その相違が確認できる.2つに,『チェスの書』がアルフォンソ10世によるカスティーリャの正統性を高めるための文化事業の一環だとすると,チェスの結果は矛盾と混乱を招く.すなわち,チェスにおいてイスラーム教徒がキリスト教徒に勝つ,しかも負けたキリスト教徒がアルフォンソ6世となれば,その子孫であるアルフォンソ10世がすすめる征服活動を正面から後押しすることにはならない.最後3つに,キリスト教徒とイスラーム教徒の装備の非対称性である.イスラーム教徒は帯刀し,天幕の外には槍が2本備えられている.一方でキリスト教徒は丸腰で,その身辺に武器は見たらない.カルヴォの言うように,このチェスがアルフォンソ6世とイブン・アンマールの政治的イベントであるならば,この非対称性は違和感を誘う.
以上の疑問の上に,コンスタブルは2つの別の可能性を示唆する.しかしそれはあくまで仮説であり,実証できるかどうかは別である.1つは,この2人は,15世紀のカスティーリャに伝わるバラッド「ファハルドFajardoのロマンス」の登場人物の可能性.このバラッドは,ファハルドというキリスト教領主ととあるムスリム君主が町を賭けてチェスで勝負し,ムスリム君主が勝利してその町を手に入れるという筋書きである.
もう1つは,アルフォンソ10世の機智の可能性.コンスタブルは3つ目の疑問にもとづいて,この挿絵がキリスト教徒の捕虜とイスラーム教徒の兵士がチェスに興じる場面と措定する.さらに彼女は,同書の他の箇所でも捕虜がチェスを指す挿絵があることに言及し,『チェスの書』におけるチェスそのものが「囚われ」のモチーフであることを提示する.その上でこの挿絵は,チェスの中ではイスラーム教徒がキリスト教徒に勝っているものの,それはあくまで盤上での結果,古き価値観に「囚われ」ているにすぎず,現実は全くの逆であり,アンダルスにおいてキリスト教徒がイスラーム教徒から次々と領土を征服し,その勢力図を塗り替えようとしていることをアルフォンソ10世が暗示するために,作成し収録されたと,コンスタブル考える.繰り返すが彼女は,この挿絵の2人の人物を特定したいわけではない.あくまで従前のカルヴォの説明に疑問を提示し,『チェスの書』でのチェスが表象するものを統合的に分析することが彼女の主眼である.
イスラーム史研究のフィールドから何気なく使用されるチェスの絵をめぐっては,以上のように,描かれる人物の特定可能性はさておき,この挿絵を含む『チェスの書』が13世紀半ばのカスティーリャという,政治的にはキリスト教徒による征服活動が進展しつつある時代に,また文化的には12世紀ルネサンスの延長線上,アラビア語とラテン語そしてカスティーリャ語が混じり合う時代に,アルフォンソ10世というアンダルスにおけるキリスト教史の中でも重要な役割を担う人物によって編纂された,という幾重にも織り込まれた背景を無視して評価することはできない.
日本におけるイスラーム×チェス研究
最後に蛇足だが,日本でも東大を2021年に退職された杉田英明氏が,イスラーム世界におけるチェスの歴史やその表象について以下の論考を出版している.
2004.「チェスの起源説話と中東世界:数学史の小径」『学士会会報』847: 98–103.
2022.「アラブ・ペルシア古典詩におけるチェスの表象」荒川正晴ほか編『西アジアとヨーロッパの形成:8~10世紀』(岩波講座世界歴史; 第8巻)岩波書店.
杉田氏は主に,アラビア語やペルシア語の文学(散文・韻文両方)に表れるチェスを追いながら,イスラーム史におけるその文化的位置付けを試みている.その過程は,彼の駒場時代の資料に対して緻密にかつ真摯に向き合う講読ゼミの風景を想起させる.私自身は指導学生ではなかったのだが,修士2年の最初に関心分野を踏まえた自己紹介のことを覚えてくださっており,修論の先行研究として重要な刊行されたばかりの博士論文について教授賜ったことが,印象に残っている.
さて,本当は異教徒関係についてマーリク派以外の法学派の動向と,「戦争の土地への商売」という議論をめぐる後日談を書き連ねるつもりだったが,予想以上に文量が嵩んでしまった.これも自分の文章の稚拙の至るところだが,これらの内容は後編としてまとめなおすことにする.