~ある女の子の被爆体験記15/50~ 現代の医師として広島駅で被爆した伯母の記録を。ノブコの体験 ”アメリカ兵”
憲兵の証言
大塚さんという方の証言を森重昭氏は書いている。(「原爆で死んだ米兵秘史」森重昭 光人社 2008年 p194-196 要約)
大塚さんは中国憲兵隊で曹長をしておられました。爆心地から4.5kmの翠町で被爆し、火の燃え盛る町中を、ようやく中国憲兵隊司令部に着くと司令部の建物は崩れおちており、その周辺に憲兵が19人負傷していました。そして、1人のアメリカ兵が水たまりの中をさまよっていました。
ちょうど良く呉憲兵隊の応援が数十名到着し、相生橋から負傷者を舟で救護しようとしたが、引き潮で舟は出せません。
仕方なく、19人の負傷者と相生橋で8月6日の夜は野宿をしました。このとき、アメリカ兵も助けようと連れてきたものの、すでにかなり弱っていたようだったと大塚さんは証言しています。
アメリカ兵を欄干へしばり、煙草を吸わせると一口吸っただけでした。
翌朝、アメリカ兵は首を垂れており、亡くなった様子だったと大塚さんは証言しています。そして、ご遺体をそのままそこへ放置したということです。
大塚さんはこのアメリカ兵の身長が175cmだったと正確に覚えていました。なぜなら、大塚さんがこのアメリカ兵の横を歩いて相生橋まで連れて行たからです。しばったのは他の憲兵でした。けれど、大塚さんは、アメリカ兵を周囲の誰にも触れさせませんでした。
「そして、周りの者には指一本触れさせなかった。」(「原爆で死んだ米兵秘史」森重昭 光人社 2008年 p196 )
相生橋以外で亡くなったアメリカ兵
中国憲兵隊司令部では、少なくとも4人のアメリカ兵が亡くなられたそうです。そのほかに、1人は広島城で亡くなられているのが目撃されています。その他2人は、被曝で後日亡くなったことが確認されています。
そのほか5人のうちの1人を、私の伯母のノブコおばさんは、8月7日に八丁堀の交差点近くでそのご遺体を発見しました。その方がどのように亡くなったかの詳細は分かりません。亡くなられた後にご遺体を殴っただけなのか、生きているうちにも殴られたのか、分かりません。どちらであっても、ノブコおばさんは、このアメリカ人の兵隊さんのことを忘れたことはありません。75年たっても心にずっと残って、今でも心の中で、「助けたかった。ごめんなさい」と、思っています。だから、「八丁堀で見たあのアメリカ兵のことは、どうか忘れないで伝えていって欲しい」と私に語っててくれました。
「アメリカの兵隊さん、ごめんなさい」
アメリカ人の捕虜の方々がいた中国憲兵隊司令部は、爆心地からたった400mのところにありました。放射線も爆風も熱線も、直近で受けた彼らは、間違いなく負傷したり、具合が悪い状態で弱っておられたことだと思います。
戦争中に敵国の中で原爆にあったアメリカ人の方々が、どんなに心細く悲しかったか。
敵国の中で彷徨った皆さんを助けてあげられなかったことは、とても残念なことです。
おそらく、生涯をかけてアメリカ兵の皆さんのことを調べた森さんも、同じような気持ちで、必死で何十年もかけて彼らのことを調べたのだと思います。その中で、相生橋の一人のアメリカ兵については、一緒に行動した憲兵の大塚さんが、アメリカ兵の最期に際し殴って殺すようなことはなかったと証言を残してくれたことを、森さんは調べあげました。もちろん、その他の方々のことはわかりません。戦争中のことで、死体に石を投げたり叩いた人もいました。そして、その亡くなられた姿を見て、それが忘れられずに絵に記録を残した方もいました。
私たちは、そのことを忘れてはならないのだと思います。
戦争は、決してしてはならないのだと、心に刻まなくてはならないのだと思います。