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びっくりしタン!カザフスタン!      #3 親日の理由の一つ、日本と同じ被曝国「助けに行った日本人」

「なんでこんなに親日家が多いんだろう?」
私が最初にセメイ国際空港(アスタナから飛行機で東へ向かって1時間・アバイ州の州都)に降り立ったのは、2021年の11月。カザフスタン最古(1929年設立)のセメイ国際空港のコンクリートの地面の上には、強風で砂状の雪氷を吹き流れ、白い波模様が繰り返し描かれてはかき消された。国際空港とはいうものの、空港は小さく、古めかしい。ここはかつて、セミパラチンスク空港と呼ばれていた。「セミパラチンスク」が、カザフスタンと日本の距離を縮めている大きな要因であることに、当時の私はまだ気づいていなかった。ただ、「会う人会う人がどうしてこんなに親日家なんだろう?」と、私の頭は、はてなマークがいっぱいになった。現地の方の多くが、「あなた日本人?私、日本は大好き」と、にこやかに、手を握ってくれる。この土地にはほぼ日本人は住んでいないし、日本のテレビ番組もないし、日本人のやっている日本料理店もない。なのに、である。

知ってる?ソビエトに統治された国々とは?

ソビエト連邦構成共和国だった国ってどこでしょう?ロシア以外に、ウクライナ、ベラルーシ、ウズベキスタン、カザフスタン、ジョージア、リトアニア、アゼルバイジャン、ラトビア、キルギス、タジキスタン、アルメニア、トルクメニスタン、エストニア、モルドバの15の国。ソビエト連邦共和国をSSRと呼び、カザフソビエト社会主義共和国は、KSSRと呼ばれた。

親日の背景

セメイで感じた親日の理由は3つあげられる。

ベシュパルマク(四角い平麺の上に煮込んだ牛肉がたっぷり)はカザフの伝統料理・家庭のおもてなし料理だ。右下はビーツのサラダ。野菜の種類が少ない寒い地域でもビーツはよく食卓にのる。写真はセメイの家庭で暖かいおもてなしの様子。ビールやワインで乾杯。カザフスタンの宗教はムスリムの割合は多いが、お酒を飲む人は多い。週末は昼からウォッカを勧められることもある。

1.日本文化(空手・アニメーション・漫画など)

一つは、セメイに限らず、カザフスタン全体として日本の文化に対する関心が高い。スポーツでは空手や柔道、剣道は人気である。また、カザフスタンの若者を中心に、日本のアニメーションや漫画の影響は非常に大きい。残念ながら日本のテレビ番組の放送はない。最近はYouTubeや某国の違法動画サイトを利用して、リアルタイムに日本のアニメーションを見ている若者が多い。どうにかしてでも日本のアニメーションを見たいと考える若者は少なくない。あるとき、タクシーの運転手さんに、「日本の漫画が大好き。漫画とアニメで、日本語を勉強した」とカタコトの日本語で話しかけられた。「教えてください。意味のわからない日本語がある。"ドキドキ"と”ドッキン、ドッキン”どう違うのですか?」それから車の中でオノマトペの質問攻めを受け、タクシーが目的地についた後もスパイファミリーのアーニャのモノマネを一通り終えるまで離してくれなかった。しかし、そこまで日本好きでいてくれることに、私はとても嬉しい気持ちになった。一方で、カザフスタンでは、日本のアニメーションや漫画のグッズを求めるファンが多くいるのにも関わらず、日本のオリジナルの製品が手に入ることはほとんどない。近い将来、日本のアニメーションやオリジナルグッズの紹介が、カザフスタンでも行われれば、喜ぶファンも少なくないのではないだろうか

遊牧民族の生活って?
 想像してみてください。朝寝ているあなたを、お母さんが起こす。   「〇〇ちゃーん、起きて。カゴを持って、ニワトリ小屋で卵を取ってきてちょうだい。お母さんは、ヤギの乳を搾ってくるからね。朝ごはんにあなたの好きなチーズ食べようね!」
 カザフスタンの歴史は、紀元前に始まる遊牧民のサカ族の時代より、東西貿易と遊牧民の文化によって繁栄してきた。遊牧民族は、季節によって家畜の放牧に適した土地を巡り、自給自足で生活をする。食事は肉食や乳製品が主である。移動場所によっては短期間に家庭菜園のような形で野菜なども育てる。朝はヤギや牛の乳搾りをし、鶏の卵を採取する。チーズやバターを作ったり、馬の乳でお酒を作ったりもする。つまり、生活も仕事も家族単位で行うため、必然的に家族の関係が非常に大切という意識となる。日本なら、近所の人など、身近な他人が生活の中にたくさんいる。しかし、遊牧生活では、日本と比べれば他人との関わりは少なく、その一方で、家族との人間関係が生活の中で大切になる。確かに、現代は、カザフスタンであっても遊牧生活をする人口は少なくなってきている。それでも、私は時々、家族という単位をとても大切にするカザフスタンの方の一面に出会うことがある。例えば、カザフスタンの友人は、家族や親戚の誕生日をとても大切にしていた。「今日はおじさんの誕生日があるから、仕事が終わったらすぐ帰らなきゃ」という。誕生日会の主役は、時に姪っ子であり、時におじさんやおばさんであったりもする。夜遅くなったとしても、親戚の誕生日会に駆けつけるという家族思いの習慣には、私は度々びっくりした。
 ところで、私が20−30代の同僚と、彼らの田舎生活の話を聞く機会があった。彼らの世代では、小学校の夏休みの時期に田舎の祖父母のうちに預けられて、家畜の世話などをした経験を持つ人が少なくなかった。
「朝、牛を『牛飼い』の人に預けるんですよ。夕方、牛飼いの人が戻ってくると、牛を牛舎に戻すんです。ごくたまに帰ってこない牛がいるから、探しに行くと、近くの牛と仲良くしてて。子供だから、牛を引き剥がすのが大変だったよね。(他の同僚も、ここで、「そうそう!」と手を叩いて笑っていた)夏休みの田舎暮らし?小さい時は楽しかったですよ。でも、仕事はちょっと面倒くさかった時もあった。今の子達はあんまり行きたがらないかもなぁ。だって、インターネットがあんまり繋がらないものね」
アスタナの「カフェモモ」(お世話になった日本食レストラン)で、若い同僚たちと大笑いしながらおしゃべりしたことは、私の楽しい思い出だ。

2.セメイ橋、日本の援助で建設された橋

一つは、1998−2001年に日本の援助によるセメイ橋の建設である。イルティッシュ川にかけられた全長1086mの吊り橋は、その壮観な外観が住民に親しまれ、カザフスタン第4の都市であるセメイの発展に大きく貢献した。デザインは日本のIHIが行った。日本の援助は、JICA(日本国際協力機構)を通じて行われ、政府開発援助(ODA)の一環として円借款で通常より低い金利で貸し付ける制度を使って、極寒の土地でー50℃から50℃まで耐えられる橋の建設を実現した。現在も工業が盛んなこの土地の産業を後押しし、交通インフラとして市民の生活を支えている。

1998-2001年に日本の援助によってセメイ橋が建設された

カザフがソ連に統治された歴史
1730年ごろ現在のカザフスタンの中部と西部はロシア帝国に統治されたが、東部のセミパラチンスク州(現在アバイ州・州都セメイ)は最後まで抵抗していた。
一方、ロシア帝国では、1917年のロシア革命が起き、最後の皇帝ニコライ2世は、1918年に家族と共に虐殺され皇帝の血筋は途絶えた。1918年レーニンを中心に赤軍(労働者農民赤軍)を創設し、ロシア社会主義ソビエト共和国(以下、ソ連またはSSR)が形成された。カザフスタンは1920年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国として統治され、1925年にカザフ自治ソビエト社会主義共和国に改名、1936年にカザフ・ソビエト社会主義共和国(KSSR)と改名された。SSRの農業集団化政策は、定住生活を知らないカザフの遊牧民族に農業を強いたが、これは土地の適性からも、自由な遊牧民族の生活様式からも、人々を飢餓に苦しめることになった。1922年にスターリンが共産党党首となり、反抗するものは強制収容所に連れていかれ、粛清される者も少なくなかった。カザフスタンにセミパラチンスク核実験場が作られたきっかけは、広島・長崎の原爆投下に刺激されたスターリンの命令により、大規模な粛清で悪名高い秘密警察長官のベリヤの管理下で実現した。カザフスタンがKSSRと呼ばれた歴史は、1991年の独立まで続いた。

3.日本と同じ被爆国、セミパラチンスク核実験場

 アバイ州には日本の四国と同じ面積を持つ核実験場があった。1949年から1989年までの40年間、456回の核実験が行われた「セミパラチンスク核実験場」である。ソ連SSRがカザフスタン国内に6か所作った核実験場のうち最大の核実験場であり、被曝者数150万人以上という世界的にも大きな悲劇を生んだ場所である。

とんでもない被害

 カザフスタン全土に6か所の核実験場が作られ、広島型原爆の1100発分、長崎型の750回分のエネルギー総量(TNT換算)の核実験が行われた。そのほとんどが行われたのがセミパラチンスク核実験場だった。「放牧をしている時にキノコ雲を見た。何度も見た」という、大気核実験の証言も多く残されている。「頭を伏せなさい」と大人が言ったところで、特に子供たちは好奇心を掻き立てられ、巨大なキノコ雲を直視した。体の外側を被曝するだけでなく、目や口の粘膜からも大量に放射線を吸収することになったと考えられる。また、住民は地域で収穫した作物を食べ、草を食べた牛の乳を毎日飲んだ。子供たちは汚染された池で泳いだ。その結果、若者を含めた多くの人が原因不明と言われるままに死亡し、生き残った人がんや白血病と診断され、病気の診断を受けなかった人も異常な倦怠感などで仕事ができず貧困が進み、セミパラチンスクの人々の生活は困窮した。気持ちの落ち込みからうつ病になる人が多く、精神疾患の率も高くなり、自殺率も上昇した。さらに、先天異常を持った子供も多く、人々の生活は想像を超えて苦しいものになっていた。


「死より強い」記念碑。Stronger than Death Monument 8月29日実験場閉鎖記念式典

なぜ知っている人が少ない?「セミパラチンスク核実験場」


 2023年8月29日、セメイにあるStronger Than Death Monument で式典が行われた。セミパラチンスク核実験場は456回もの多数の核実験が行われ、被曝者数150万人以上という世界的にも大きな悲劇を生んだ場所である。なのに、これだけたくさんの犠牲者を出しているにもかかわらず、不思議なことに、世界的にもいまだに認知度が高いとは言えない。背景には、1991年の核実験場閉鎖後も、住民に放射線について詳しく知らされなかったことがある。「軍事演習」があることは警告されても、原子爆弾や核実験という言葉が住民に知らされることは一切なかった。これは公式な文書に情報の通達の記録はなく、また住民インタビューでも明らかになっている。「家族がどんどん死んで、病気になっていく」状況の中で、自分の健康異常や実験場への恐怖を感じながらも、確定的な知識や情報がなかった。実験場が閉鎖され、カザフスタンが独立した1991年になっても、放射線が何かを知らない人がほとんどであった。そんな中、1994年には日本人物理学者日本人医師らが現地を訪れ、放射線線量計測などをし、少しずつ放射線という言葉を人々が知るようになっていった。しかし、それ以降も近隣国との地政学的な影響から、時代によって自由な発言がしにくい状況が続いていた。このような状況下で、世界にセミパラチンスク核実験場の情報が流れるのはさらに遅れてしまったと考えられる。2024年現在、カザフスタン国内ではSNSが国民の間で非常に普及しており、自由な発言ができる状態と言える。セミパラチンスク核実験場の悲劇の歴史は、現在ではカザフスタン国内の歴史教科書で必須の履修事項である。
現在は自由な発言のできるカザフスタンであるが、地政学的な緊張は完全に消えたとは言えない。KSSR時代の統治されていた時代の苦しい歴史の記憶は、核実験時代の歴史とともに国民は忘れてはいない。自由ではあるが、目に見えない時代の流れに敏感に対応しようとしているのではないだろうか。カザフスタンの人々は、時代の流れの中で地政学的な状況に一定の緊張感を持ちながら、自分や家族を守ろうと努力しているのは、現在でも同じではないだろうか。

日本人物理学者、住民のために

日本人による放射線線量測定調査 セミパラチンスクにて

 1994年、星正治氏は放射線物理学者としてカザフスタンへ降り立った。当時はまだ独立したばかりのカザフスタンは情勢が混乱しており、渡航は簡単では決して簡単ではなかった。さらに、核実験の行われていたセミパラチンスクの安全が保障されていたわけでもなかった。星氏はとにかく被曝状況を把握するために、セミパラチンスクの各地へ赴き、放射線線量測定を行い始めた。実験地の中や周辺には、放射線が基準値を超える場所があったが、それを明らかにする星氏の取り組みは、まさに勇気と人のために尽くす心の成せる技であった。当時は、カザフスタンの放射線被曝に関する専門家はほとんどいなかった。「放射線があることが分かっていても、どれくらい危険なのか、どこが危ないのかわからない」という現地で、住民はただただ今まで通り、生活を続けていた。そんな中、星氏はヒロシマ・ナガサキで行われたと同様の測定方法で、セミパラチンスク住民のためにあちこちで線量を測定した。建物の瓦や壁などの放射線を測定し、ヒロシマ・ナガサキのデータと比較することは、被曝の程度を判断することに非常に役に立った。星氏は、専門家として測定するだけでなく、住民が自ら線量測定ができるように指導し、どのように被曝から身を守るかについても住民と情報を共有した。そのため、セミパラチンスクの放射線物理学の専門家を育成することにも貢献した。星氏がカザフスタン国内で多くの専門家を指導したことは、私自身、セメイ医科大学(旧セミパラチンスク医科大学)ではもちろん、アルマティの大学や首都アスタナでも現地の専門家から話を伺った。2024年現在もセメイ医科大学などの医師やカザフスタンの放射線物理学研究者らと被曝の影響などについて研究や教育指導を継続している。

日本人外科医の献身


セミパラチンスクで住民の診察を行う日本人医師

 1994年、武市宣雄医師野宗義博医師はともにセミパラチンスクへ飛んだ。星氏と同じく、独立したばかりのカザフスタンに行くのはまだ簡単ではない時代の渡航だ。渡航理由は、被曝者の医療支援をするためである。ともに広島出身の甲状腺外科医である武市医師と野宗医師は、セミパラチンスクの小さい村々を周り、甲状腺の住民健診を行なった。放射線の影響で、甲状腺がんの患者は少なくなかった。村では、「日本の広島から先生がやってきた」と噂を聞いた住民が診察を受けにきた。時には現地では専門家がおらず手術ができない患者に、現地の医療機関で治療を行ったこともあった。「難しい手術もあったが、先生たちはなんとか治療しようと最善を尽くしてくれた。先生方は日本で勤務している時でも、セメイの患者のために幾度となく相談に乗ってくれたし、若い医師の指導にも力を尽くしてくれた。甲状腺だけでなく、いろいろな症状の患者を救ってくれた。先生の顔を覚えているセミパラチンスクの患者はたくさんいる」と、セメイ医科大学のある教授は私に話してくれた。先生方はウクライナのチェルノブイリでもボランティアで被曝した住民の診察にあたっていたという。このような勇気ある先生方がいたことに、私自身胸が熱くなる思いがした。
私は、セメイに初めて訪れた時、ある被爆者から声をかけられた。
被曝者の診察に日本人の医師が来てくれて、私たちを助けてくれたんだよ。そのことはこの土地の人たちは忘れないよ。だから私は日本が大好きなんだ。ありがとう
野宗先生は、日本に帰ってからもカザフスタンの人たちを忘れてはいなかった。留学をしに広島や島根を訪れる若者の生活の悩みに応え、時には私費で援助を行うこともしていた。私はこのような日本人医師の先生方のことを知り得たことで、たくさんの勇気をいただいた。そして、とても誇りに思うことができたことを、心より感謝したい。私も、先生方のように、”思いやり”を、生涯持ち続けていきたいと思うし、誰かが困っていたら助けたいと思う。小さいことしかできないと思うが、そうしていきたいと願う。

セミパラチンスク核実験場については、別の記事で詳しく述べたい。どのようにできたか、どのようなことがあったか、ご興味を持っていただければ、ぜひ読んでいただきたい。


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