不幸の証明

友人の結婚式に出席した。素敵な式だった。でも今強烈に思い出すのは、式の中で不意に浮かんだ「自分があのドレスを着ることは一生ないのだ」という気持ちだった。
見つめ合う新郎新婦、2人の間の絶妙なバランスと緊張感を目の当たりにして、ああ、私はこうなるべき相手を失ったのだと思った。

大好きな人が、若くして亡くなった。去年の春にそれを知った。
もう何年も前に別れた恋人だが、私はこの1年と数ヶ月、いろんな気持ちと闘ってきた。
なぜ死んだ?連絡を取ればよかった。あの時別れるなんて言わなければよかった。私のせい?いやそんなことはない、たぶん。最期は何を思っていたのか。誰かに見守られて死んだのか。葬式はどんな感じだったのか。また会えるのか。会って話せるのか。ここから飛び降りればいいのか。できない。涙が止まらない、でも飛び降りることはできない。家族や恋人が死んだあとにその人の夢を見る人は多いというが、私は夢にすら出てこない。所詮はそれまでの関係だったのか。

初めに死の知らせを聞いたとき、本当に、目の前が真っ暗になるのを感じた。この先もいるものだと思っていたし、そのうち会えると思っていたし、どこかでずっと心の支えにしていたのだと思う。
この先私はどうすればいいのか。
初めのうちのショックはいずれ薄らいでいく。それは知っているものの、私にとってはあまりに大きな出来事で、この先目を瞑って生きていくことはできない気がしていた。

そのうち、ある考えが浮かんできた。
どうせこの先結婚も子育てもしないのだし、残りの人生の時間を、彼の好きだったこと、やり残したことに捧げてみるのはどうだろう。私の人生を、彼の人生の続きにしてみる、みたいな感じで。
そう思って、彼の研究していた物理学を勉強してみたりした。物理学を学んで、何か社会貢献とかできないかと目論んでいた。
このときの私には、残りの人生を彼のために、という気持ちもある一方で、「こんな大変な経験をしたのだから、なんとかして埋め合わせというか、元を取るというか、そういう結果にならなければ気が済まない」という気持ちもあった。
でも結局勉強は長く続かず、熱力学の途中までで止まっている。

彼の死を知って以降、腹立たしい出来事もあった。
「若くして死ぬ人はさほど珍しくない。そんなに気を病むな」と言われたときだ。私を元気づけようとしてかけてくれた言葉だと思う。でも無性に腹が立って、怒りを抑えながら黙っていることしかできなかった。本当は張り倒してやりたかった。

確かに統計上、日本では20代以下で亡くなる人は年間約1万人いる。死者1人につきその周囲の5人がひどく悲しむとすると、一生のうち一度は私と似た悲しみを経験する人はおそらく3%くらいいるだろう。
でもそれが何だというのか?同じ経験をする人が一定数いるなら、それは大したことがないとでもいうのか?私の大好きな人が死んだ。それは大変な出来事だ。私にとっては、世界の終わりくらいの勢いだ。私の他にも、身近な人を若くして亡くした人はいる。でもそれは、私がひどい悲しみを感じることとは何の関係もない。

私は、自分の経験が確かに不幸であることを証明したいのかもしれない。
物理学を勉強して何かを成そうと考えたのには、きっとそういう気持ちがあるのだと思う。彼を失った悲しみのエネルギーで、何かすごいことをして、「彼女にとって彼の死は尋常じゃなかったのだ」と、彼の死は特別な出来事だったのだと知らしめたいのかもしれない。
それができるかどうかは、私の努力と運次第だし、それを見た他の人たちがどう思うか次第だ。今彼の死は、私にとっては特異点、世間にとってはただの統計上の点である。


こうして書き出してみると、東浩紀の「訂正可能性の哲学」にもこんなようなことが書かれていたなと思う。
東浩紀の言葉には、私が前に進むための鍵があるような気がしている。

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