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忘却の彼方に何があるのだろう。
古市さんの記事、読ませていただきました。
名前は存じ上げてるんですが、本を読んだことなくてですね。確か、AKB総選挙の副音声の解説で、ただひたすら指原さんにフォローを入れさせ続けた人というぐらいの認識ですいません。
で、この記事呼んで思ったのは、重光葵の和歌です。
ながらへて甲斐ある命今日はしも しこの御盾と我ならましを
願はくは御国の末の栄え行き 吾名さげすむ人の多きを
昭和20年9月2日、さきの戦争の敗戦にあたり、降伏調書にサインする際に全権代表として向かった時に、重光葵が詠んだものです。
今の日本国民の多くは、重光葵のこの和歌はもちろん、重光葵の存在すら「忘却」しているんでしょうね。
さきの戦争においては、日本は被害者であり、加害者であった。そういったアンビバレントな事実も、世の中を取り巻く問題も全部「忘却」できてしまえば、いいかもしれませんね。
そういや、野猿の『Be cool!』にこんな歌詞がありました。
こんなに憂鬱な明日がやってくるなら 群衆の中に紛れていたい
あいつもこいつも目撃者なのに 社会の欺瞞に足を止めない通りすがりだというのだろうか、EveryBody例えば俺たち生まれなければ 生きてる意味など迷わなかった開けてはいけない扉もあるよ EveryBody
秋元康さんの作詞でしたが、やはり、この人「わかってるな」と思います。群衆に紛れていない人だから、こういうことを書けるのだと、今になって改めて感じます。
そういえば、小林秀雄はこう言ってました。
「歴史とは上手に思い出すことである。」
ちなみに、伝統と習慣に関してはこう言うてました。
「傳統と習慣とはよく似てをります。併し、この二つは異るのである。僕等が自覺せず、無意識なところで、習慣の力は最大なのでありますが、傳統は、努力と自覺とに待たねば決して復活するものではないのであります。」
「忘却」の彼方があるとすれば、ニーチェの「最後の人間」がそれに該当するでしょう。歴史を失い、伝統を失い、近代的価値観の枠組みの中で、生きる気概の無くなった人間。
少なくとも私は、「通りすがり」とは言わず、努力と自覚を持っていこうと思います。