21.野球界の激震。そして
前々回の記事を書きながら、ホワイトウェーブが発足した当時の野球界全体のことが気になったので調べてみた。
きっかけは、上の記事中にある『第一回九州クラブ野球選手権大会 兼 第31回全日本クラブ野球選手権大会九州地区予選 兼 第一回西日本クラブカップ 九州地区予選』というやたら長い大会名。
ここに、このころ急速に変わっていった野球界全体の背景があると感じたのだ。
それはきっと、鹿児島ホワイトウェーブにもとても関係の深いことなんじゃないかなと。
2004年のプロ野球再編問題
おそらく、ことの発端は2004年のプロ野球再編問題。
詳しいことは割愛するが、プロ野球の試合でストライキが決行された年だ。古田選手会長のなんとも苦しそうな表情は、今も忘れられない。
それによって、うすうす囁かれていた『野球離れ』はさらに加速したかのように見えた。
2005年、欽ちゃんが立ち上がる
きっとそんな野球界を見て黙っていられなかったのが欽ちゃん、萩本欽一さん。
欽ちゃんが2005年1月(※ウィキペディア参照)に球団を立ち上げたのは、そういった背景を受けて、少しでも野球界を盛り上げていきたい、という想いだったという。
欽ちゃん球団の試合は、欽ちゃんがマイクを握り、選手たちにツッコミを入れて笑いを誘いながらのもの。それまでの「野球の試合」の概念を覆すそのスタイルは、賛否があり物議を醸した。
でも。
その、一風…というかかなり変わったやり方は、確かに新しい野球ファンを取り込んでくれたんだと思う。だって、ほんの一部見ただけで、私もとても楽しかったもの!
結果論かもしれないけれど、野球界に新しい風を吹かせたのは事実だ。
そして欽ちゃん球団があったからこそ、鹿児島ホワイトウェーブがこの年の7月に誕生した。このときはまだ、一夜限りのイベントチームとして。
2005年~2006年、タレントチームが大流行
欽ちゃん球団茨城ゴールデンゴールズの活躍を受けて、各地でタレントさんが社会人野球チームを立ち上げることが大流行りした。
知っている限りでも、森口博子さんやテリー伊藤さん、森田健作さんなど、いっけん野球とは無関係に感じられる方々が『総監督』としてチームに名を連ねている。
ホワイトウェーブがクラブチームとして日本野球連盟に正式登録しようというとき、当時の九州地区野球連盟理事長から「君たちは本当にやるのかね」と斜めの視線を浴びせられたことを書いた。(※5.洗礼参照)
これはずっと昔からの野球界を支えてきた重鎮たちの、大切なこの世界をいっときの流行で乱してくれるな、という想いもあったのだろう。
鹿児島にも、2006年9月に『薩摩』というチームが立ち上がっている。
ホワイトウェーブが正式に船出した数か月後だ。
ちなみにこの『薩摩』の立ち上げにも定岡正二さんが関わっているというから、社会人野球の世界ってなんか複雑…笑
ただの流行?いや…
こうして、2005年から2006年の間にたくさんの社会人野球チームが誕生した。
急な盛り上がりに運営が追いつかず、冒頭のような長い名前の予選大会が開催されることになったのだろう。
このころ立ち上がったチームの中には、関係者の懸念通り数年で立ち行かなくなるチームもあった。
『薩摩』もそんなチームの一つだし、のちに書くことになるけれども鹿児島ホワイトウェーブにもそういう危機があった。
けれども、今の社会人野球界を見ると、それが必ずしも一過性の流行ではなかったのだと感じる。
チーム数が増えたために、二次予選のみだった都市対抗野球大会の九州予選は一次予選から開催されることになった。
いちチームから見ると本戦への出場はつまり遠くなったわけだけれど、野球界全体でみると底上げになろうし、なにより盛り上がる。
私は高校野球に35年関わっているが、20年ほど前をピークに県内のチーム数は減る一方。なんだか寂しさを感じるわけで。
だから、社会人野球のチームが一過性であれ増えたことについては素直にすごい!と感じたし、流行で立ち上げたであろうチームが思いのほか踏ん張り続けていることも嬉しい。
どこにも、アツい野球バカたちがいるんだろうな。
プロ野球再編問題から端を発したであろう野球界の大きな変化。
それは、私のようなただの野球ファンから見ると、むしろ野球界に新しい風を吹かせてくれてありがとう、という想い。
そして鹿児島ホワイトウェーブもそのおかげで立ち上がったならば、今こうして歴史を紐解くほどにチームがつながってきていることに喜びと感謝すら湧いているところです。