22.組織と組織のはざまで

2007年からのホワイトウェーブ第二章を書き始めていたところなのですが、もうしばらく巻き戻しのお付き合いを。

まさかの事実

2005年、欽ちゃん球団とのイベントのときには20人の選手たちでスタートした鹿児島ホワイトウェーブ。
そのうちの半数近くが、勤め先などの軟式野球チームに所属していた。

ところがクラブチームとして日本野球連盟に正式登録となったところで、思わぬことが判明する。

勤め先や軟式野球連盟から、二重登録はできないと言われたのだ。

日本野球の組織って

明治から長らく続く日本野球界は、その歴史の中でいくつかの組織が出来上がっていて。
一般によく知られているのは、プロ野球と、いわゆる甲子園大会を運営する『日本高等学校野球連盟(高野連)』だと思う。

そのほかにも、鹿児島ホワイトウェーブなど社会人の硬式野球チームが属しているのは前出の『日本野球連盟』、軟式野球チームは『全日本軟式野球連盟(通称:軟連)』など、多岐にわたる。
実はこれを調べていて、その組織の多さと複雑さにめまいがしそうだった笑

わたしのような素人には、軟式だろうと硬式だろうと野球は野球だからいいじゃないかと感じたのだけれど…当時はそうはいかなかった。

二者択一

軟連との二重登録ができないとなると、軟式野球チームに所属しながら鹿児島ホワイトウェーブの初期メンバーとなった選手は、二者択一を迫られた。

勤め先で所属している軟式野球チームか、それとも好きな硬式野球を続けるか。迷った結果、泣く泣くチームを去った選手も。

こうして、2005年欽ちゃん球団とのイベント時には20人以上いた選手が、2006年の日本野球連盟加盟時にはなんと12人にまで激減してしまった。

え?実は!?

ただしこれには後日談があった。

軟式チームとの重複登録はできないと回答したのは、鹿児島県軟式野球連盟だったようなのだが、よくよく調べると全日本軟式野球連盟の規約では認められていたらしい。
つまり、辞めなくてもいいのに辞めちゃった選手が何人もいたということ!

もう、ちゃんと調べてくださいよ…

しかしこれも、前回書いた野球界激震のあおりで、いろいろ混乱していたことの一つかもしれない。
きっとこのことがあったからこそ、今ではそんな誤解もないことだろう(希望的観測)。

再スタートは

さてさて、12人では社会人クラブチームとしては心もとない。
というわけで、再度入団テストを行ったのは2006年のはじめ。

欽ちゃん球団に勝ったことで、アツい野球バカたちが「オレも!」と夢を再燃させたんだろう。二度目の入団テストへの申し込みも50人ほどが集まった。
そこから18人が残り、計30人で再スタート。

画像2

このメンバーで、第二回目の欽ちゃん球団とのイベントをはじめ2006年の試合を戦っていくことになる。
公式戦の試合結果は、以前にも書いたとおりだ。

おまけの監督のお話

あっ、ちなみに。以前書きそびれていたことがひとつある。

2005年のチーム発足時にイベントで監督を務めた定岡正二さん。
クラブチームとして再出発する際、球団代表が東京に出向いて定岡さんに今後についての相談をしたそうだ。

日本野球連盟加盟のクラブチームとなると、本格的に関わるならばやはり本拠地を鹿児島に移していただくほうがありがたい。それはさすがに難しかったのかな。ご検討くださったそうだけれど。

定岡さんとしても、腰を据えては難しいけれど、関わることだけならば…ということで、このあと誕生したもう一つの社会人野球チーム『薩摩』の立ち上げに名を連ねたのかもしれない。

組織の複雑さはあれど、故郷の野球に関わっていたい想いはみな同じなんだろうなと、すこし嬉しくもあった。

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