球団ヒストリー19.新監督
ある日、私は鹿児島市内の団地にあるサッカー場に向かっていた。
当時の新監督にお話を伺うために。
サッカー場?
そう。でもそこで少年向けの野球教室があると聞いたのだ。
コロナ禍のゴールデンウィーク中。
練習に来る子どもたちなんているのかしら、と思いながらグラウンドを見ると、小学校高学年くらいの少年が二人、なにやら細長いものを投げている。
「やり投げしてる…」
野球教室ならキャッチボールやティーバッティングをしていると思っていた私は、こりゃ場所間違えたかなと、グラウンドに入ることを躊躇していた。
2人の少年を見守るのは、父親らしき人と少し年配の男性。
場所を間違えていなければ、この年配の男性に私はお話を伺いに来た。
はじめましてのその方は、会釈した私に気づいてくださった。間違えてなかった、とホッとしつつ私はグラウンドに入っていった。
そう、この方が、鹿児島ホワイトウェーブの新監督、末廣昭博さん。
それまでも、何人もの選手たちから「熱心な監督だった」「技術指導が本当に丁寧だった」と口々に聞いていた方。
週に一回のこの少年野球教室は『末廣塾』と呼ばれており、私の友人も息子さんを通わせていたという。
末廣さんは、車で2時間の自宅から毎週通っているそうだ。
少年たちが投げていたのは、ジャベリンという道具らしい。(聞きそびれていたので今ネットで調べた^^;)
ノックバットのような、槍投げの槍のような、不思議なカタチ。
それを投げることで、ボールをまっすぐに送り出せるようになるという。
投手のみならず、野手にとっても大切な技術。
末廣さんは、そのことを熱く語ってくださった。
そう、まさにこの姿勢が、新監督の末廣さんそのもの。
選手一人ひとりの、一つひとつの動きをしっかりと見て、そして彼らの想いをしっかり聞いて、丁寧に指導していく。
クセを見抜き、本当に大切なポイントを繰り返し繰り返し教え込んでいく。
そんな熱心な指導者。
指導者ではないにせよ鹿児島の野球に30年以上関わってきた私は、風の噂に聞いたことがある方だった。
そして、大学の先輩や同じ年の野球監督など、共通の知り合いも多く話は盛り上がった。小一時間の予定が、2時間ほどたっぷりと。
野球談議ができる。
いや私なんぞはただの野球ファンであり、『野球談議』なんて大層なお話はできないが、それでもとても丁寧に話をしてくださった。
「30年も野球に関わっているなら、あなたも立派な野球バカだね」と笑っておっしゃったのは、私にとってはほめ言葉だ。
そんな、野球と選手一人ひとりへの愛にあふれた末廣新監督。
鹿児島ホワイトウェーブを見たときにどう感じたのかお尋ねしてみた。
「とても都市対抗というチームではない」
ご自身も、鹿児島鉄道管理局という社会人チームでプレーしていたという。
社会人野球の厳しさ、都市対抗野球の難しさをその肌で知っておられるわけだ。
内心ではそう思いながらも、本気で都市対抗を目指し練習している選手たちに「勝てない、を言っちゃいけないんですよ」。
当時は練習をするにしても平均7~8人しか集まらない日々。
少ない時は3人という日も。
それでも休むことなく無報酬で、ときに遠征では自腹を切ってまで参加し丁寧に指導する末廣監督。
その姿勢に選手たちのモチベーションも上がっていったのではないかしら。
鹿児島の野球ファンなら知らぬものはいない鹿児島商業高校の小鷹監督とに乞われコーチをしていた経験もおありの末廣さん。
そのツテもあり、鹿商の室内練習場をお借りすることもできたという。
公共の室内練習場は『硬式野球NG』の場所も多く、特に雨の時期の練習場確保に苦慮していたチームにとってはありがたいことだった。
練習場があり、そこには常に監督がいる。
そんな当たり前とも思えることは、2006年までの鹿児島ホワイトウェーブにとって日常ではなかった。
もしかしたらこのとき初めて、本当に最低限の環境が整ったのかもしれないなぁ。
そんなことを考えながら、ナイター照明に照らし出された練習場をあとにした。