とおくのまち 21 廃墟の女装者

とおくのまち 第二部

21 廃墟の女装者

 男性の恰好は世を忍ぶ仮の姿、
とにかく、自分ののぞむ姿を手に入れたかった。
そして、いつかほんとうの自分の姿で暮らしていきたかった。

 時は、二十世紀も終わろうとしていたころの話。

 しばらくホテルやウィークリーマンションを転々と滞在した後、
実家へ留まることになった。

 梅雨の季節だったか、雨の日だった・・・。悪天候にもかかわらず、
妻は、予告していた日にいっさいの荷物を撤去したようだ。

「まるで、廃墟だ」そう思えた。
いや、家屋に損傷があるわけではなく、あくまでも比喩として。
いわば、家庭というなにかが瓦礫のように崩壊しそこに佇んでいた。
幸せも、夢も、未来も、そして、懐かしき過去さえも。
なにもない虚無の空間だけが広がっていた。

 前にここを出てから、一年近くの月日が流れていた。
妻と子の姿はなく、部屋をいっぱいにしていた家具さえも
消えうせていた。そこにあるべきものがないという光景は、
ここに在った想い出さえも、かき消した。

 「自由か。もし、それを自由と呼ぶのなら、自由とは
思ったよりも空虚なものなのか」
あの動乱のあと、妻が占拠しつづけたこの城は、我が手に戻った。
嵐は過ぎ去ったはずだ。
しかし、私の心の中に、いまだ静寂は訪れてはいない。

 女装ルームのロッカーの中に隠蔽していた荷物を持ち帰った。
これらは、妻の手で処分されるのを免れた貴重な戦力だった。
さっそく、身に着けてみるが、姿見に映ったその姿をみて、
かすかな希望は絶望へ変わり果てた。

「誰だ? 『れいか』じゃないのか? 」
鏡の中に、かつてのわたしは映らなかった。
醜い化け物のような女装の男がこちらを見ている。
化け物が、その皮を脱ぎ捨てるかのように、私は身に着けたカツラや
衣服を剥ぐと床に叩きつけて、タオルで顔を拭った。

 時間はやはり残酷だ。
時の中に消えていったものは、あまりに多い。
わたしの体格は変わり果て、化粧の腕前は落ち、ウィッグや道具は劣化し、
洋服は流行に取り残されてしまっていたのだ。
なにもかも失った、そう思った。

 失意の中にあっても、それでも、もういちど、歩き出していた。
業というものはそこまで深いのだろう。

 どんなに絶望しそうになっても、あきらめることはないだろう、
たとえ、この魂が消え去る日が来ても。
仕事が早く終わった日など、せっせと服や化粧品を買いに行った。
そして、もういちど、女装ルームの扉を叩いた。
今頃、プロのニューハーフになっていたはずのわたしが、こんな素人みたいなことをもう一度することになるとは思いもしなかった。

 この時のわたしは、女装者としては廃人同様であった。
なんと、女装することが怖かったのだ。
女装しても、外出することさえできないほど、足がふるえた。
自分でさえ、自分の姿を好きになれなかった。
もう、再起不能だった。

 れいか……、私の中に『れいか』はもう居ない。。
最愛の自分自身だったはずなのに。もう、どこにもいないなんて。
いつでも、会えるはずだった、寂しくてせつない。
『れいか』は、そうか、あの祇園に消えたのかな。
私の身体はここに在るというのに。心だけが、身体を離れて、
『れいか』は今もあの古都を彷徨っているのだろう。

※ 『れいか』はこの文章での仮名です。
実際には、『れいか』ではなく別の名前を使っていました。

※ 年代や場所、人名は、実際の名称とは変えている場合があります。


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