あいトレから1ヶ月後も考えていること

もう1ヶ月も経ってしまった(!)けれど、あいちトリエンナーレでの一連の事件をきっかけに東京大学出版会「文化政策の現在(小林真里編)」シリーズ計3冊を大人買い(12,000円也〜〜〜)してまだ1冊目の途中しか読めていないのですが、濃密すぎてすでに頭がパンク気味なので考えたことを残しておこうと思う。(ついでに寄り道して読んだ本も含めて。)

いま、あいちトリエンナーレと同じようなアートの祭典のインターンをしていて色々思うことはあってすぐに意見を出して解決策がある問題ではないけれど、考えることをやめちゃいけないという念を込めて。

・あいちトリエンナーレの一連のニュース(美術手帖の記事)
https://bijutsutecho.com/search/word/magazine?q=あいちトリエンナーレ&page=1

・あいちトリエンナーレを契機とする表現の自由に関する議論(ONPAM)
http://onpam.net/?p=3835

特に下記4点のことが頭から離れない。
それぞれ適切な問いを立てて、長期的に考えていきたい。

★頭から離れないこと★
①文化と国家の関係性
②公共空間の在り方
③芸術家とパブリックの間に立つ者の専門職性
④芸術の定義や境界線(社会性・政治性/エンターテイメント性/芸術性)

①文化と国家の関係性
元々日本の「文化政策」規範とされたのは、ドイツのナチズムの文化政策であり、文化が政治のツールとして用いられてきた背景をしっかり見つめなければいけないな、と感じている。

「文化政策の現在1」で述べれられている、文化と国家の関係性に関する記述でメモしておきたいのは下記2点。

1. 植民地主義がナショナリズムを生んだが、その二つは共犯の関係だったという指摘
ナショナリズムは、植民地からの脱却を目指す中で生まれたものだが、ナショナリズムそれ自体が世界を多元化させることにより帝国を延命させた=植民地主義の長期化という状況を作り出していた、というのだ。

文化という概念は、差異や自律を生み出すものであって、それを国としていかに定義、機能させていくか?は、国の基盤にも関わる話だなーと考えた。

2.国家からの文化の自律性は、国家による保証が前提だという指摘(サイードの研究基本的視座)
「植民地の文化」として成り立たせるためには、被植民地国に承認され、自律を担保されるというステップが必要だった。

国家から自立/自律したいのに、国家からの承認が前提として必要になるというジレンマは、文化のみならず国家内で多数VS少数の闘いでよくあることではないかな、と思った。
そのジレンマを抱えた中で、国家としては自律の担保をどのように政策に組み込んでいくべきなのか?また自律したい側からの目線では国家をどう活用すればいいのか?

➡︎◎問い:国家による文化概念の認識、文化保護をいかにしていくか?

②公共空間の在り方

『空間の生産』アンリ・ルフェーブル
・空間とは何かと問うことは政治を問うことである
・社会的権力を空間に入れることで政治的になる
・空間は均質的になることで政治的効果を発揮する

➡︎◎問い:公共空間での表現に制限が求められるか?
➡︎◎問い:自己検閲の高まりがもたらすものとは?

cf.)最高裁平成7年3月7日判決
「泉佐野市民会館使用不許可処分事件」
…会館における集会が開かれることによって、人の生命、身体又は財産が侵害され、公共の安全が損なわれる危険を回避し、防止することの必要性が優越する場合、その危険性の程度は、単に危険な事態を生ずる蓋然性があるというだけでは足りず、明らかな差し迫った危険の発生が具体的に予見されることが必要

③芸術家とパブリックの間に立つ者の専門職性

・パブリック・フォーラム論
…公有地や公的に管理されている場所の第一次的機能に支障をきたさない限り、表現活動の場としてアクセスする権利が認められる

下記3種類あって、3番目の非パブリックフォーラムに注目
1.伝統的パブリックフォーラム(公園、道路など)
2.政府の指定によるパブリックフォーラム(公立劇場)
3.非パブリックフォーラム
…言論主体の見解に反対するという理由での制限は許されないが、時・場所・方法・その他規制も合理的である限りには許される場所

cf.) 天皇コラージュ事件(富山県立近代美術館)
→公立美術館の専門家の自律性をどのように考えるか?

➡︎◎問い:職務に沿って判断した行為に対して、上位の行政機関はその内容に干渉が許されるのか?

・アーツカウンシル
…国家の文化政策に助言を行い、文化政策を実践し、芸術のあり方について国民の議論を喚起する役割を持つ
・ドイツ憲法第5条第3条「芸術の自由」
芸術家と公衆との媒介機能を果たす専門職まで、その自由が保障されている

➡︎日本におけるアーツカウンシルの有資格化の検討の必要性の高まりを感じる。今回のあいトレ問題の核も、芸術祭における作品展示の責任者不在もしくは責任放置ではないか?

④芸術の定義や境界線(社会性・政治性/エンターテイメント性/芸術性)
『ソーシャリーエンゲイジドアートの系譜・理論・実践』工藤安代、清水裕子、秋葉美知子

芸術が社会性を持つことに伴って、芸術の定義と受容者・評価者の対象が変化
◎芸術の定義
美的なもの→社会的なものへ変化
◎受容者・評価者の対象
美的なもの→倫理的なものへ変化

「藝術とは何か」byトルストイ

・ひとは芸術を通して、つくり手の思想/経験を受け手が同じ感情を経験する能力がある。芸術はこの能力の上にあるもの。
・我々は美に没頭すればするほど善からはますます遠ざかる。

時代は全然違うけれどもトルストイは上記のように述べていて、美的なものへの没頭から遠ざかるにつれて倫理観がより問われるようになってきた、とも言える。
➡︎芸術の倫理観とは?誰が判定するのか?(つくり手、受容者、展示企画者、運営者⁇)

★まとめ★

①〜④まであくまで頭の中のメモだけれども、

今回のあいトレ問題を踏まえて強く感じるのは日本における芸術機関の第3者的役割の不在と必要性だ。

** つまり、政府と美術館(やアートスペース)以外の機関が芸術祭含め客観的にチェックする存在が欠けているのではないか、と。日本にはないけれど憲法裁判所のように実際に起きたことに対して違憲するかどうかを見極めたりする機関があれば、憲法がより機能的になっていくのではないかと思う。**

アーツカウンシルが日本各地には存在しているものの、その権限は政府と同等であれば安全確保しつつ展示継続を行う道があったのでは…と思ってしまった。

もうちょっとイギリス発祥のアーツカウンシルについて深く調べて、日本におけるアーツカウンシルの発展について思慮を巡らせたいと思う。

#読書感想文 #あいちトリエンナーレ #文化政策 #表現の自由


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