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恋愛小説『先輩、僕はまだ恋を知らない』第5話
第5話: 勇気の一歩
その日、カフェの閉店作業が終わったのは、いつもより少し遅い時間だった。シフトメンバーは、忙しかった一日を終えてそれぞれ帰り支度を整え始めていた。悠人もカバンを肩に掛け、店を出ようとしたときだった。
「悠人くん!」
振り返ると、紗季が慌てた様子でこちらに向かってきた。
「あの、これ……置きっぱなしだったの気づいたんだけど。」
紗季が手にしていたのは、悠人の水筒だった。確かに、今日もバックヤードに置いたまま忘れてきたことを思い出す。
「すみません、ありがとうございます!」
慌てて受け取る悠人に、紗季は穏やかに微笑んだ。
「私もちょうど帰るところだったから、一緒に行こうか。」
「え……いいんですか?」
「もちろん。もう遅いし、一人で歩くのもなんだか寂しいしね。」
その言葉に、悠人は少し緊張しながらも頷いた。
店を出ると、夜の空気は冷たく澄んでいた。店内の忙しさとは打って変わって静かな道を、二人はゆっくりと歩き始めた。
最初はどちらも無言だった。悠人は、隣で歩く紗季に何を話せばいいのか分からず、内心焦っていた。一方で、紗季は特に気負った様子もなく、月明かりの下で穏やかな表情をしている。
「ねえ、悠人くん。」
突然紗季が口を開いた。
「学校では何を勉強してるの?」
「えっと……経済学です。正直、難しいですけど、なんとかやってます。」
「経済学か。なんだか未来のことを考える学問って感じだね。将来はその分野で仕事したいとかあるの?」
その質問に、悠人は少し考え込んだ。将来の夢について明確に答えられるほど自分の目標が定まっているわけではなかった。
「まだ具体的には決めていません。ただ、せっかく学んでいるので、何か役立てる仕事ができたらいいなと思っています。」
「なるほどね。そういう風に少しずつ考えられるのって大事だと思うよ。」
紗季の言葉はどこか励ましのようで、悠人の胸に心地よく響いた。
道が少し暗くなったあたりで、紗季がふと足を止めた。
「こっちの道、雰囲気いいよね。」
「え?」
紗季が指さしたのは、小さな公園に続く道だった。そこには並木道があり、街灯の明かりが柔らかく照らしている。
「実は、私こういう静かな場所が好きなんだ。」
そう言うと、紗季は笑顔を見せた。
「意外です。紗季さん、もっと賑やかなところが好きなのかと。」
「まあ、友達といるときはそうかもしれないけど、一人のときはこういう静かなところの方が落ち着くんだよね。」
その言葉に、悠人は少し驚いた。いつも明るくて周囲を盛り上げている紗季にも、こんな一面があるのだと知ったのだ。
しばらく歩いていると、紗季がポツリと口を開いた。
「私ね、昔から夢があったんだ。」
「夢、ですか?」
その言葉に、悠人は興味を引かれた。
「うん。小さい頃から本を読むのが好きで、自分でも何かを書いてみたいって思ってたの。今はそれが仕事になったらいいなって考えてるけど、なかなか難しいね。」
「そんな夢があったんですね。」
悠人は、少し尊敬の眼差しで紗季を見つめた。
「でも、どうしてカフェのバイトをしているんですか?」
その質問に、紗季は少し考えるような表情を浮かべた。
「それはね……カフェって、人と人が繋がる場所じゃない? いろんなお客様が来て、それぞれのストーリーがある。それを見ているうちに、自分の書きたいことが少しずつ見えてくるような気がするんだ。」
その言葉に、悠人は胸が熱くなった。彼女の夢に向かう真剣な姿勢と、自分の人生を豊かにしようとする姿が、彼の心に深く刻まれた。
やがて紗季の家が近づき、二人は足を止めた。
「ありがとう、悠人くん。一緒に帰ってくれて。」
「いえ、こちらこそありがとうございました。」
軽く笑い合いながら別れる瞬間、悠人は少しだけ自分に自信を持てた気がした。
(もっと話したい。もっと彼女を知りたい。)
そんな思いが、彼の心に静かに灯っていた。