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恋愛小説『先輩、僕はまだ恋を知らない』第3話
第3話: 初めての雑談
初めてのバイトを始めてから1か月が経とうとしていた。悠人は少しずつ仕事に慣れ始めたものの、まだ緊張感が完全に取れたわけではなかった。それでも、少しずつできることが増えていく中で、ささやかな達成感を味わうことができるようになっていた。
そんなある日、シフトが重なった紗季と休憩を取ることになった。
午後3時過ぎ、ランチタイムの忙しさが一段落した店内は静まり返っていた。お客様の数もまばらで、スタッフたちは交代で休憩を取る時間だった。
「悠人くん、休憩行っておいで。」
紗季が優しく声をかけてくれた。
「ありがとうございます。でも、紗季さんは?」
「私も少ししたら行くから。先に行っていいよ。」
その言葉に従い、悠人はスタッフルームへ向かった。小さなテーブルと椅子が並ぶその部屋で、悠人は冷たい麦茶を飲みながら一息つく。仕事中の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
数分後、扉が開いて紗季が入ってきた。
「お疲れさま。」
「お疲れさまです。」
紗季はテーブルの向かいに座り、同じように麦茶を手に取った。その仕草一つひとつが自然で、悠人にはどこか大人の余裕を感じさせるものだった。
「悠人くん、このバイト始めて1か月くらい経つけど、どう? 慣れてきた?」
「あ、はい。まだ失敗ばかりですけど……なんとか。」
たどたどしく答えると、紗季はくすりと笑った。
「そっか。でも、最初の頃よりずっと落ち着いてきたよね。レジ打ちとか、もう全然見てなくても大丈夫なくらいだし。」
その言葉に、悠人の胸が少し温かくなった。頑張ってきた自分を認めてもらえたような気がして、自然と口元がほころぶ。
「ありがとうございます。でも、紗季さんみたいに上手くなるのは、まだまだ先だと思います。」
「そんなことないよ。私だって最初はひどかったから。」
紗季が少し照れくさそうに言った。その言葉はおそらく謙遜だろうと悠人は思ったが、紗季がそんな風に自分の話をするのは初めてだった。
少しの沈黙が流れたあと、紗季がふと話題を変えた。
「ところで、どうしてこのバイト選んだの?」
突然の質問に悠人は少し戸惑ったが、正直に答えることにした。
「えっと……学校と両立できそうだなと思って。それに、なんとなくカフェの仕事ってカッコいいなって思ってたので。」
「へえ、いいじゃん。たしかにカフェの仕事って、ちょっとおしゃれなイメージあるよね。」
紗季は優しく頷きながら答えた。
「でも、実際にやってみると、そんなにカッコいいものでもないですよね。お皿洗いとか地味な作業ばっかりで。」
悠人が苦笑いを浮かべると、紗季は声を立てて笑った。
「たしかに。お皿洗いと掃除が半分以上だよね。でも、そういう地味な作業が実は大事だったりするんだよ。」
その言葉に、悠人は少し驚いた。紗季がどんな思いでこの仕事をしているのか、改めて知りたくなった。
「紗季さんは、なんでここで働いてるんですか?」
勇気を出して聞いてみると、紗季は少し考えるような仕草をした。
「私はね、最初はただのアルバイト感覚だったよ。でも、働いていくうちに、この仕事が好きになったのかもしれない。お客様に『ありがとう』って言われると、すごく嬉しくなるんだよね。」
その言葉に、悠人は思わず聞き入った。紗季の優しさや笑顔の裏には、そんな思いがあったのだと初めて知った。
雑談はそれからも続いた。紗季が好きな映画や音楽の話をしてくれる中で、悠人は彼女のプライベートな一面を少しずつ知ることができた。
「最近観た映画で面白かったのは?」
「えっと、『星の庭』っていう作品。静かな雰囲気の映画で、映像がすごく綺麗だったんだ。」
「へえ、そんな映画があるんですね。どんな話なんですか?」
「主人公が田舎の庭を手入れしながら、自分の人生を見つめ直していくっていう感じかな。悠人くんも観てみたら?」
「なんだか難しそうですね……でも、観てみます。」
彼女の好きなものを知るたびに、悠人はますます彼女への興味を膨らませていった。そして、話をしている間、紗季の笑顔が何度も目に焼き付いた。
休憩時間が終わりに近づくと、紗季がふとつぶやいた。
「こうして話すの、なんだか新鮮だね。」
「そうですね。紗季さんと二人きりで話すのは、初めてかもしれません。」
悠人が少し緊張気味に言うと、紗季はくすりと笑った。
「またこういう機会があったら、いろいろ話そうね。」
その言葉に、悠人は小さく頷いた。胸の奥がじんと温かくなるのを感じながら、彼は自分の気持ちが少しずつ紗季に向かっていることに気づいていった。