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今年も年賀状印刷の時期が来ましたね!

デジタル化の波が押し寄せる中で・・

まだまだ厳しい残暑が続いている。こちら札幌でも、今年も昨年の猛暑と同様に気温30℃後半を記録する日があり、外を歩くと痛いくらいの直射日光と、まとわりつくような湿気が容赦なく襲いかかる。「エアコンなし」で頑張っていた小生だが、ついに「エアコン付きの物件」に引っ越して一週間ほどになる。快適さを求める余り、つい「エアコンフル稼働!」の毎日だが、来月の電気代が、ふと頭をよぎる。
そんな酷暑の毎日だが、街路樹に目を向けるとトンボが羽を休めている風景に出くわすようになった。季節は、確実に秋に向かって進行中である。そんな秋を迎える頃、毎年のように小生にとって「秋を感じさせてくれるもの」に、年賀状印刷のネット注文がある。枚数は、確実に減ってはいるものの、まだまだ、LINE、FacebookなどといったSNSツールに頼ることなく、「デジタルよりアナログ」を実践されている諸兄姉がおられる。そんな方々との年に一回の交流の場が年賀状である。今年は、10月からの郵便料金値上げの影響も予想され、さらに来信賀状は減っていくと思っている。

年賀状は不謹慎で、SNSは不謹慎ではないのか?

今年の4月に、10年間にわたる闘病生活を終えて、母親が天国へと旅立ったパーキンソン病とレビー小体型認知症の併発による闘病生活であった。「私にも息子がいてね・・」と言いながら、目の前で会話をしている男が自分の息子である!との理解はできていない晩年であった。
今年に入ってから意識レベルが格段に低下し、内蔵機能も弱ってきたことから、「今年の桜は見られないかもしれない・・」と主治医から宣告されていた。その予測どおり、4月の中旬に旅立っていった
その意味からも、本来ならば喪中の時期に年賀状を投函することは不謹慎なのかもしれない。しかし、小生はあえて、「普通の正月光景」にこだわりたいと思い、来年の年賀状印刷を注文した。
私が死んでも、誰にも知らせなくて良い」「あんたも、普段どおりの生活をしなさい」「喪中だから・・と自分から喪中ハガキなどで世間様に触れ回ることはしなくて良いからね・・」というのが、生前の(まだ、小生と普通に会話が成立していた頃の話・・)母親の口癖だった。実際、母親の葬儀は誰にも告知することなく、直葬(通夜、告別式なし)で行い、小生一人で収骨してきた。今、その遺骨は、粉骨処理を専門業者に行ってもらい、私の部屋で手元供養している。
母親の口癖に従い、「普段どおりの正月」を過ごす意味からも、毎年恒例の年賀状を投函することにしたい、と小生は思っている。LINEなどのSNSで新年の挨拶をする光景は変わらないのだから、年賀状だけ、ことさらに「喪中」を強調することに意味を感じないというのが本音でもある。
来年の正月には、手元供養している母親の骨壺に、これまでの感謝とこれからの抱負を込めて、母親が好きだった、かすみ草の花とともに、私からの年賀状を手向けたい。


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