連載小説『モンパイ』 #9(全10話)
信号が変わり、再び生徒の大群が押し寄せてきた。
「おはようございます!」「○○予備校です!」「付箋お配りしています!」「いってらっしゃい!」の四コマンドだけを頼りに、一人で果敢に立ち向かう。
孤軍奮闘。
通る生徒が多い分、必然的に受け取ってくれる人数も増えるので、「いってらっしゃい!」を繰り出す回数が多くなる。
せめてこのコマンドだけは惰性にならないようにと、なるたけ心を込める。
この言葉を掛けられた生徒がどう感じるかはわからないし、そもそも耳に届いていないかもしれない。
だが、その中のたった一人だけでもいいから、ほんの少しだけでもいいから、温かい気持ちになってくれたら嬉しい。
七時半から八時半までのわずかな間に、僕は何百人という数の人間と出合っている。
それなのに、誰とも知り合うことのない空虚さ。
その一人一人が、きっと素晴らしい個性を持っているだろうに、その片鱗さえも知ることのできないもどかしさ。
目の前にいながらにして、想像することでしか知り得ない歯痒さ。
モンパイという敵は、なんて冷酷なのだろう。
残り十分を切った。
気づけば資材の残部は二十部程度になっている。
ラストスパートだ。
生徒たちも、遅刻をしないようにと、早足で登校してくる。
急いでいる人に渡すのは危ない、と躊躇する必要はない。
たとえ走りながらでも受け取ってくれる生徒は、案外多いものだ。
彼ら彼女らの行手を阻まないように注意しさえすれば、支障はない。
自分も部活の朝練がない日は、こんなふうに遅刻ギリギリだったな、と懐かく感じる。
大学の授業は何回サボったかわからない。
きっと彼ら彼女らもそんな大学生になるのだろう。
これは想像というより、もはや確信に近い。
八時二十五分。
予鈴が鳴る。
タイムリミットが迫っている。
短距離走者さながらの気迫でやって来る生徒に、ささやかに渡そうと試み続ける。
遅刻を回避することにしか注意が向いていない彼ら彼女らは、スーツ姿の見慣れない一人の男が配布しているものを無批判にかっさらう。
仮に僕が麻薬を配っていたとしても、きっと受け取ってしまうのだろう。
どんなときも、冷静な判断力を失ってはいけないと学ぶ。
本鈴が鳴る八時半まで残り一分を切ったところで、最後の一部となった時、突然に「すみません」と声を掛けられた。
振り向くと、HIRAI GAKUENの制服を着た一人の生徒が立っていた。
そして、「それ、いただいてもいいですか?」と言った。
はあ、はあ、と肩で息をしている。
「もちろんです」と言いながら資材を渡すと、その生徒は「ありがとうございます!」と嬉しそうにお辞儀をして、校舎へと走っていった。
僕はその背中に「いってらっしゃい!」と声を張り上げた。
とうとうモンパイが終わったのだ。