★国語教師(56)
うちの学校には古文、漢文専門の女性教師が三人いて、すべて非常勤です。三人が手分けして全学年の生徒に古文、漢文を教えています。彼女たちは新宿の予備校に勤務する講師でうちの学校での仕事は副業です。三年生で難関大学に挑戦する計画の生徒に受験対策の授業も行います。
ところで、古文、漢文の勉強って、必要ですか?
この問いは「英語の勉強って、必要?」という問い掛けと似てますね。僕たちは英語はもちろん、古文、漢文の読み書きができなくても全く支障なく生きていけます。入社試験で古文の問題を出す企業は聞いたことがないです。(笑)
全日本人の八割は古文、漢文に関する深い知識がないと思いますね。なぜ源氏物語の現代訳がそれなりに売れるかというと、大半の日本人にとって源氏物語の原文を読むのが辛いからです。枕草子をスラスラ読める人も少ないはすです。
では英語圏はどうか。英語の古文、ありますか?
ありますよね。現代では決して使わない単語を用いた文章が。ネイティブでも難解と感じるそうですから我々日本人にとって古代の英語の解読にはかなりの労力が必要でしょうね。
さらに遡れば、英語の親であるギリシャ語、ラテン語の勉強です。これまた困難な勉強対象だろうな、と容易に想像できます。
僕は、古文、漢文については外国語を学ぶ、くらいの気持ちで取り組めばいいと思いますね。源氏物語を原文でスラスラと読める能力。とても素敵です。古代の文法を理解し、語彙力が高まれば古語の世界を楽しむことができます。
森鴎外は夏目漱石に負けず劣らず優れた作家だと思いますが、漱石に比べると人気イマイチですよね。なぜだと思います?
鴎外の作品の一部は古語、漢語をたくさん駆使しており難解だからです。その文体は雅文体とも呼ばれ、いわば、外国の作家みたいな人です。だから多くの日本人に敬遠されるのです。
一方の漱石は非常に庶民的で文章が読みやすいです。なぜ鴎外に比べて漱石の文章は読みやすいのか。
それは二人の立場の違いと言えるかもしれません。漱石は朝日新聞社に雇われたサラリーマン作家であり、毎朝配達される新聞に連載を書く必要がありました。
さて、新聞はどんな人が読むでしょう。大学教授もいれば魚屋もいれば学生もいる。まさに一般大衆です。その人たちに向かって古語、漢語をたくさん用いた小説を書いたらどうなりますか?新聞社に苦情がたくさん来るんじゃないですか。分からない、難しい、全く面白くない、と。
だから漱石の文章は一般家庭の主婦でも何ら支障なく読めるよう配慮されているのです。今から100年前に書かれた文章とは思えぬほど現代文との相違が少ないですよね。
一方、鴎外は軍人であり、医者です。留学先はドイツです。まあ一種の、サムライですよね。どちらかと言えば官の側の人間です。なので、どうしても立場上、文章がカタくなってしまうのではないか。間違っても「吾輩は猫である」みたいな漫談っぽい話は書けなかったのではないでしょうか。
ただし、発禁処分を受けた小説もありますから、鴎外は官の世界を少しはみ出した作家と言えるかもしれません。さらに言えば、民間人である自由な漱石を羨ましいと思っていたかも。
もし人気投票をやったら鴎外は漱石に負けてしまう。しかし、だからといって文学的に鴎外が漱石より劣っているということにはならないと思いますね。
漱石の作品の中でも草枕はちょっとテイストが異なります。漢語、古語が多い。漱石の深い教養が爆発的に露出している作品だと思います。しかし一般大衆は「難しい、分かりにくい」と評価する。このギャップを埋めるために「作家の側が読者に歩み寄りました」という作品が漱石の場合、「こころ」とか「坊ちゃん」だと思います。吾輩は猫である、も秀作です。漫談の形を取りながらも内容は哲学的で教養たっぷりです。
鴎外と漱石の違いはいろいろありますが、鴎外の特徴の一つは弟子がいないということかな。漱石は元教師という経歴が影響しているのか家に弟子たちを呼ぶことに何ら抵抗感がありませんでした。一方の鴎外はそのような、知的サロンのような会を主催しなかった。なんだか孤高の作家という感じがします。
庶民的で親しみやすい漱石、ちょっと近寄りがたいような哲学者風の鴎外、僕はどちらも好きですね。
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