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『映画 ギヴン』を見て「表現活動」とか「才能」とか、「言葉や理屈を超えて人を感動させるもの」って何ぞや〜ってことを考えたぞ

 『映画 ギヴン』の記事を書いたのよ。いや、このnote記事のことじゃなくてね。

 バンド活動をモチーフにした青春群像劇なボーイズラブ作品『ギヴン』がアニメ化して、そのアニメ版の延長で映画化ってわけね。んで、ワイはその映画版を見る機会があったのでした。

 そしたらなかなか渋い映画でねぇ。熱烈な男同士の絡みもさることながら、才能へのコンプレックスに身悶えてる様子はなかなかグッとくるものがあってさ。不覚にも表現活動をやってる人たちにとっての才能とは何ぞや〜とか、言葉や理屈を超えて人を感動させるものって何ぞや〜ってことを考えだしちゃったの。

 考えはしたけど文章にしよ〜とかってふうにはなってなかったんだけどさ。人間って不思議でね。『映画 ギヴン』を新宿はバルト9からウチに帰るまでの間にいろいろ聞こえちゃうんだなぁこれが。この日にワイと話した人の言葉であったり、ワイが生きてきたこれまでの時間だったりがさ、こしょこしょとしゃべりかけてくるからさ。

 とくに、この記事を書くきっかけをくれた二人に感謝。ひとりは筆者であるザムザを『映画 ギヴン』へと導いてくれて。もうひとりは『映画 ギヴン』を見た直後のザムザに、「マリリン・マンソンの表現力」の話をしてくれてさ。このふたつの出来事が一種の啓示だったよ、ほんま。ワイに “この記事を書かねばならない” って確信をくれたもんな。

 言うなれば二人の父親がいるみたいなもんだからね。んで、母親になって出産したのはザムザ(笑)

 そういうわけで下の記事ができたってわけ。

  記事の内容は「表現と才能」に関することと「感覚とサウンド」に関することだね。

 書いた感じとして、この記事では「才能がない人の苦悩もまた才能ゆえのことなんだよ」ってことと、「意味や理屈にとらわれないでじかに感覚に刺さるのがサウンドなんだねぇ」ってことを見つけ出してる。

 なんで「サウンド」って言葉を使ってるのかってのは田中純って思想史学者が書いた『政治の美学』って本があるんだけど、読んでたらその本の中でサラッと使われてたのよ、サウンドが。それが気になっちゃってねぇ。──で、この『映画 ギヴン』を考える上で自然と気になっていた「サウンド」の用語を使うことになったってわけだ。

 上にリンクを載せた記事の内容はこんな感じですわ。

・『映画 ギヴン』はロックバンドで音楽活動をする4人の若者を中心に展開するBL青春群像劇だ。アニメ版ではバンドメンバーのうち高校生の二人が照明され、劇場版では大学生と大学院生の大人組が照明され、音楽的才能をめぐるコンプレックスや表現にたずさわることの厳しさをコンセプトにしている。
・表現者は伝えたいことを的確に表現できるかどうかが問われる。その際、才能人にはその作品で伝えたいことが的確に表現できたかどうかについての絶対的な感度があり、逆に才能のない凡庸人はそうした感度が相対的で、既成の評価枠や既に評価されたものと合っているかどうかに気を配ることになる。
・人を共鳴させるやり方は理屈ではない。理屈ではなく聞き手に届けてしまうのがサウンドの力だ。サウンドは象徴的な意味のコードを超えてじかに生理的感覚に根ざした情動をゆさぶる。それゆえにサウンドの総体として聞かれることになる音楽は、意味の理解に頼る言葉よりも強く人を共鳴させるのである。

 気になったら読んでみて。


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