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#2「私たちが忠誠を果たすべきもの」とは?(2023)

1.はじめに

 閲覧ありがとうございます!記念講座TAを務めておりますA.Nです。今回は2023年10月11日に行われた「中村哲記念講座」の第2講の様子についてお送りしたいと思います。


2.グループ分け、自己紹介

 まず授業の初めに、次回からのグループワークを行うグループの発表と顔合わせを行いました。基本的に学部・学年の異なる学生たちで集まるため、初対面の方ばかり。初々しい反応を見ることができました。

 私のグループでは簡単な自己紹介の後に、「なぜこの記念講座を受講しようと思ったのか?」と尋ねてみました。すると「国際的な問題解決を考える共創学部に来たからには…」「九大に来たからには有名な中村医師のことを知っておくべき」との回答が。しっかり受講理由を持っている方ばかりで感動しました✨ちなみに「鏑木先生(記念講座担当教員)の事前説明が良く、受講を決めた」という理由で決めた方も(!)。

 今回の授業は、そんな鏑木先生による講義でした。以下に内容をまとめます。


3.講義:中村哲医師の「初心」とその背景

《第2講の目標》

「中村哲医師の「初心」となる出発点と、彼が活動したパキスタン・アフガニスタンへの理解を深めること。それにより、中村医師が『何を見て何を感じ何を考えたのか』を想像し考え、話し合うための共通の土台を作る」

(授業スライドより)

 今回のテーマは中村哲医師の初心です。みなさんは中村医師の初心について考えたことはありますか?実際の現地での活動に注目が集まる中村医師ですが、鏑木先生が今回注目したのはその始まり。加えて、中村哲医師の学生時代にも触れ、学生たちの興味を引きました。

《中村哲医師の「初心」》
 鏑木先生が中村医師の「初心」に注目するにあたって、用いた資料は『ペシャワール会報』です。準備号、1号、2号から、特に初期の中村医師の考えに焦点を絞るために、重要と考えられる言葉を改めて引用しました。(『ペシャワール会報』はこちら(準備号1号2号)から閲覧が可能です!ぜひご覧ください✨)

「この地を訪れたのは、一九七八年福岡登高会のヒンズー・クッシュ遠征隊に加わったのが初めですが、その頃まで私は JOCSなどの活動については良心の免罪符か、外国人のおせっかいくらいにしか思っておりませんでした。しかし、かの地の実情は、観念的な批評をはるかに超えて圧倒的なものがあり、以来私は何をなすべきかを自問し続けてきました。」

(『ペシャワール会報』準備号より)

 準備号の挨拶で語られるのは、ヒンズー・クッシュ遠征隊参加に際しての中村医師の心情の変化についてです。参加前はJOCS(日本キリスト教海外医療協力会、中村医師をのちにペシャワールに送った団体)などの活動も「良心の免罪符か、外国人のおせっかい」くらいにしか思っていなかった中村医師が、実際に現地へ行ってみたことによって圧倒され、自問し、JOCSを通じての要請に応え、医療協力のためペシャワールに赴く。中村医師の中に大きな転換が起こっています。

「私だけが自分で何かをするのではなく、もっと広くて大きな、人々の良心の奥にあるものに支えられている」
「みんなの知恵と賜物をよせあつめて、実際の行いを通して私たちの目指すものを着実に実現させてゆかねばなりません。そしてそれには長い時間と忍耐が要ります。」

(双方『ペシャワール会報』1号より)

 初期のペシャワール会は中村哲応援団のような様相を呈しており、所属していたのも(ご友人や)教会の方が中心だったとされています。しかし、中村医師がペシャワール会報においてキリスト教的な表現を赤裸々に話すことはほとんどなく、宗教的な表現は彼からあまり出てきません。そこには、自身の信仰をもっと広いものとして考えていたのでは、と鏑木先生は指摘します。

 現地で医療をしようとするとき、中村医師は多くの人からの支え(もっといえば献金)がないと実現可能ではないことを自覚していました。またそれ以上に、これから中村医師は約35年間ペシャワールのために心血を注ぐことになりますが、成し遂げるためには長い時間と忍耐が必要なことをすでにこの時点で理解していました。

「私たちが忠誠を果たすべきものは〇〇教や〇〇主義の立場ではなく、はるかに普遍的で大きなものであります。」

(『ペシャワール会報』2号より)

 2号では、より深く中村医師の「初心」に切り込んでいきます。現地での慈善を目的に掲げながらも実際は宗教伝道を目的とする団体が多い中で、そういった目的を持たない中村医師が残した言葉です。

 「普遍的で大きなもの」という非常に抽象的な言葉が出てきました。難しい言葉ですが、この「普遍的で大きなもの」がわかると、中村医師の考えに近づくことができるのではないか、と鏑木先生は考察されました。

 中村医師のペシャワールに行くという判断に、周囲から協力や激励とともに様々な批判が寄せられました。それに、反論することなく、宗教的に立場を正当化することもなく、なぜ中村医師は積極的に海外へ行くことを決めたのか。中村医師は続く部分で次の3つを強調しています。

①「人は何処にあっても、どんな立場にあっても、夫々のやり方で、夫々の重荷を負いあって生きてゆくように召されているという事実であります」
②「全ての「繁栄」と名の付くものは、弱者の犠牲の上に築かれてきた」
③「問題は、いかに良き近代化を彼らと共に模索しあってゆくかということになります」。

 ここから、中村医師は自身の仕事を神からの呼び出しであるとし、繁栄・近代化の課題を取り上げるという、今聞いても説得力のある議論を展開していたことがわかります。では、こういった中村医師の「初心」はどういった背景のもと培われたのでしょうか?

 
《このような「初心」を懐(いだ)くにいたる背景》
 ここで、鏑木先生は、中村医師の「初心」の背景を紹介するため、中村医師の年譜を用いながら、中村医師に影響を与えた人物について取り上げます。
 
 そこでまず挙げられるのが、親族である祖母の玉井マンと、伯父の火野葦平(玉井勝則)です。祖母は、弱者をかばうことや、職業に貴賤はないことなど、のちの中村医師の倫理観に大きな影響を与えています。伯父は、中村医師が中学1年生のころに亡くなりますが、戦争で(戦後も)苦しんだ経験を持つ人が身近にいたこともまた、中村医師にとって大きな意味があった…のかもしれません。
 
 そして高校時代の中村医師に大きな影響を与えたのが、不敬事件や不戦論で有名な内村鑑三(思想家、1861‐1930)です。もともと農学部の昆虫学科を志望していた中村医師でしたが、趣味のための大学進学を父は許しませんでした。その時、内村の講演である「後世への最大遺物」に感銘を受けます。(「後世への最大遺物」はこちらの青空文庫にて読むことが可能です✨)

「『後世への最大遺物』のインパクトは相当大きく、私もまた自分の将来を「日本のためにささげる」という、いくぶん古風な使命感が同居するようになった。」

(『天、共に在り』より)

 そうして中村医師は九州大学の医学部に進学することを決めました。大学時代には、フランクル(精神科医、1905-1997)や滝沢克己(哲学者、1909-1984)の影響を受けています。
 
 中村医師の大学時代を振り返る証言もいくつか残っています。その一つとして、中村医師は早熟で、大学時代から伝説的な人であったことや、大学時代から変わらなかったことについての、村上優会長のお話が紹介されました。

「彼は若い時から「怒り」、世の中の不条理に関する感性がすごく強かったんじゃないでしょうか。」

(村上優ペシャワール会会長「中村哲記念講座」(2021)より)

 講義の最後に、中村医師の次の言葉を鏑木先生は取り上げます。

 「学生時代って大切だよ。学生時代やっていたこと・考えていたことっていうのは、その後もそのままの方向で行くものです。多くの人を見ていると大体そう思います。」

(落合道夫「中村哲さんと名島寮の再開」『九州大学キリスト教青年会会報一麦だより』第3号、2020年より)

 これを聞いた学生たちは、これからどのようなことをして、考えていくのでしょうか。一個人の感想になりますが、そこで中村医師の言う「私たちが忠誠を果たすべき」「普遍的で大きなもの」は、一つの指針になるのではないかと思われました。

4.次回予告

 以上が第2講の内容となります。グループワークの各議論を深めるにあたり、重要な講義となりました。
 
 来週からはついにグループワークが始まります!第一回目のグループワークのテーマは「国家が破綻した地域での医療支援」について。事前資料としては、『ペシャワール会報』36号(1993年、こちらから閲覧が可能です✨)が設定されました。これと課題図書『天、共に在り』(2013年)をもとに、90年代の医療支援において中村医師が「何を見て何を考えたのか」について学生には考えてきてもらいます。TAも学生の勢いに負けないよう、議論を盛り上げてまいります!

 最後までお読みいただきありがとうございました!ぜひ来週もお待ちください✨


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