#3#4グループワーク「中村医師の立場と“怒り”とは?」(2024)
ご閲覧いただきありがとうございます。
今回のnoteでは、2024年度秋学期「中村哲記念講座」の第3回(10月16日)と第4回(10月23日)の授業の様子をお届けいたします。執筆者は本講義のTA(ティーチングアシスタント)であるA.Nです。
グループワークについて
今回は、前回の講義(第2回のnoteはこちらから)に作られたグループA〜Eで集まり、ディスカッションを行います。グループの性別や学年,学部、様子はさまざまです。私のグループではお互いをあだ名で呼び合おう、と和気藹々としていました☺️
前回までの講義形式とは異なり、第3、4、7回の授業ではグループワークが中心となります。まず担当教員の鏑木先生より、本講義の目的の確認とグループワークの進め方についての説明がされました。ここでも振り返ってみましょう。
この授業の目的、目指すべき成果
中村先生のなされた仕事の意義を学び、中村先生の志を受け継いでいくために自分達に何ができるのか、考えた成果をプレゼンテーションで発表
今年は特に「医療支援と農村復興事業の実践から考える平和と自然」という視点から考える
グループワークを実施する目的
一人で本や資料を読んだり、考えたりするだけではわからないことに気づく
他者の発想や考えから刺激を得て、自分の考えを深める
さまざまな発想、視点から出された意見を一つにまとめ、自分の考えを広める
また、「知っていることより感じた・考えたことを大事に」、「他の参加者の話をよく聞く」、「一人だけ話しすぎない」ことを重んじようと声掛けされました。
この記念講座は、①講義→②グループワーク→③講演→④グループワーク→⑤プレゼンテーションという構成となっており、今回のグループワークで話し合ったことが、講演での理解やプレゼンテーションにつながる重要な位置にあります。
では、今年の受講生たちはどういったことを話し合ったのでしょうか?
第三回:中村医師の医療支援について
ディスカッション1:事前配布資料を読んで印象に残ったこと
まず、第3回の一つ目のディスカッションのテーマは以下のものでした。
第3回を開講するにあたり、事前に配布された資料は『ペシャワール会報』のNo.36(1993)、No.44(1995)、No.51(1997)、No.56(1998)、No.60(1999)の5つです。(これらはすべて中村哲アーカイブにて閲覧可能です。ぜひご覧ください🙏)
この議題について、各グループで挙がった話をみていきましょう🎵
グループA
「すごい矛盾を感じる会報だった(ことが印象的だった)」
「現地の一部になりたいのか、一部じゃない別の人として現地と共に歩みたいのか。現地に自立して欲しかったのか、日本人ワーカーの存在が不可欠だと思っていたのか(どっちなのか)。揺らいでいたように感じた。この時期の中村さんは医療支援に区切りをつけて灌漑事業に移る時期にあたる。中村さんの目標が医療で人を救うことからの転換点にあったからこそ、意見も変わっていたのでは。」
グループB
「日本人目線での「ボランティア」と現地の実情のギャップに違和感を感じていたように読み取れた。」
「(中村医師は)国連などのシステムに違和感を持ち、アフガニスタンと世界を比べて俯瞰している。」
グループC
「中村先生は,全員が積極的に行動するということに平和を観念しているのではないかと考えている。」
「(中村医師は)日本にいて表面的な支援をするのではなく、現地に行った。何もかも先進国の技術を取り入れるのではなくて、現地にあった用水路を作ったりして、平和を取り戻すのではなく能動的・積極的に平和を目指している。平和ではないことを実感して、平和とは何かを感じていたのでは。」
グループD
「全体的に感じたのは、何かをしようとするたびに結構な困難があった。海外の団体が諦めるようなことも、めげずにされてて、たまに垣間見える厳しい姿勢から、日本との状況の違いが印象に残った。」
「(資料④=No56より) “なんのためにここまで苦労を重ねなければならないのか”。中村哲さんもこんなことを考えるんだ」
「哲さんが願ったのは気候変動を止めることで、それが願いでもあり意思を繋ぐ(という)ことでは。スケールの大きい話だが、それが哲さんの向き合ってた課題で、課題の大きさを感じた。」
グループE
「不動の石でありたい、ずっと同じ目標で行っていることがすごいと思った。」
「中村医師の活動の中でうまくいかなかったところ・悪かったところもあると思う。働いてるスタッフの衛生、貧困ビジネスなど。営利目的でやっていなかった。そこはどうかなとも思った。」
各グループでは、会報で印象的だった点について多様な議論が展開されました。中村医師の一見どっちつかずに見える姿勢が議論を盛り上げ、彼の心情や視点に注目した意見もありました。また、平和や自身の限界に葛藤しながらも、淡々とできることを遂行した姿が印象的とされました。中村医師の業績や意外な一面にも触れ、彼の志を次世代にどうつなげるかについても議論が深まりました。さらに、彼の活動の素晴らしさだけでなく、支援の限界や問題点にも目を向けることで、現在の支援活動の課題が浮き彫りにされました。
ディスカッション2:「ハンセン病の長老」への処置について
次の議題は以下のものでした。
これはぜひ実際にペシャワール会報を一読いただきたいのですが、ここでも簡単に「ハンセン病の長老」「“誤った因習”」の内容を説明いたします。
中村医師は、ハンセン病による足底潰瘍が悪化し、腫瘍化した60代の長老の治療を依頼されました。通常なら足を切断する必要がある状況でしたが、患者の村の長老会(ジルガ)が足の前半部だけの切断を望みました。文化的な背景を考慮し、中村医師はその要求を受け入れ、難しい手術に挑戦します。手術は成功し、長老は回復して退院しました。この経験を通じて、「責任を取る本人」という個人は存在しない、共同体の意思が重視される地域社会の文化的背景を尊重する難しさに直面したことが語られています。
では、この中村医師の処置について、学生はどのように考えたのでしょうか?
グループA
「(会報の中に出てくる「賭け」という言葉について) 一対地域という感じ。ジルガの文化を尊重しているがその共同体の一部にはなっていない。形式的にはジルガの意思を尊重しているが。やった後もベストだけど医療的にはベストじゃないから、途中で寿命がどっちが先かも考えての賭けかもしれない。賭けて、信頼を得るか得ないかにつながるのでは。本人は医療的にベストはないと思っていたのでは。」
「全て何個かの条件を全部見て決めているのでは。場合によって、条件によってベターな選択をする。文化を(絶対に)尊重する(立場)なら孤独にならなかったのでは。医者として大事なところもあったのでは。」
グループB
「その場しのぎではなく、その後のことも考えての決断だったと思う。中村さんがずっと現地に居続けたいという覚悟も伝わってくる」
「中村さんの選択がすごいのではなく、そうせざるを得ない状況での判断だったから、もう少し中村さんを身近に考えてもいいのではないか。」
「「孤独」について、中村さんの臨床医に対する考え方である「現地の患者を前にして、その状況に応じて正当法でなくともちょっとでもよくなればいい」という考えに共感してもらえる日本人がいなかったことから生まれたのではないか。普通、日本の医療では完璧を求める。」
グループC
「長老の足については現地の文化は切断しない、日本なら切断すべきという対立がある。アフガン戦争の構図で、現地の暮らしがあってもソ連は共産主義を強行していったというのが似ているのではないかと思った。中村さんは臨床医としてできることをやっていったのでは。」
グループD
「もし、中村さんの判断が正しいからと言って脚を直せたとしても、村は医師を受け入れなくなるだろうし、「科学が正しい」を押し通すことに限界があると感じた。科学にも文化にも正しいことはあって、お互いが納得できる妥協点を探すのが大事だと思った。」
「地域で医療を行うにあたって、一番大事なことが現地の人たちに信頼されていくこと。長老が不信感を感じていた描写があった通り、不信感を信頼に変えるために、地元の文化を大切にしたのでは。」
グループE
「最終的には現地の考えを尊重するスタンスがあったのでは、と思ったが、最終的に臨床医の方針を尊重した。医者としての自分があって、社会でいい暮らしができるように、その人が属している良い生活をするという点だと、長老会に従った方が最善だった。現地の考えを尊重する形になったのでは。」
各グループでは、中村医師の処置についてさまざまな視点から議論が行われました。中村医師が現地の共同体に完全に溶け込んでいたわけではないかもしれないが、それでも深い理解と寄り添いを持ち、現実的な選択をしていたとの意見が出されました。彼の長期的な視点に基づいた決断や行動は、単なる英雄視ではなく、厳しい状況下での現実的な選択と評価されています。また、相手を尊重し、できることから行動する姿勢が重要だとの見解も示されました。
そしてディスカッションは次の第4講に続きます…!
第4回:中村哲医師の農村復興事業について
10月23日に第4講、2回目のグループワークが行われました。
今回の事前配布資料は『ペシャワール会報』No.75(2003), No. 76(2003), No. 105(2010), No. 120(2014), No. 133(2017)で、2003年から2017年までの中村医師による報告書になっています。
鏑木先生は最初に、当時(1990年代後半〜2000年代初期)の時代背景を確認しました。ここでも簡単に振り返ってみましょう。
ソ連撤退後の内戦・軍閥抗争の状態から、1997年、タリバンがアフガニスタン・イスラム首長国を宣言し、1999年までに国土の九割を支配するようになります。2001年には「9.11テロ」を機に、米英主導によるアルカイーダ・タリバンへの軍事行動が始まりました。そして反タリバン勢力の北部同盟がカーブルを制圧し、外国軍駐留のもと、12月に暫定政権が樹立します。その3年後の2004年にアフガニスタンでは憲法が発布され、アフガニスタン・イスラム共和国が成立しました。
前回の医療活動時期のアフガニスタンは、アフガン侵攻など冷戦の煽りを受けていた印象でした。ですが今回の農村復興事業の始まった時期は、政権交代や対テロ戦争など内外で大きな衝撃を受けた時期にあたります。
中村医師の活動が農村復興事業へ拡大したことからもわかるように、支援活動にも大きな変化がありました。その原因が2000年以降進行した旱魃です。水不足から来る栄養失調のために、「緊急水源確保事業」に取り組んでいた中村医師と現地事業体PMSは、2002年には「緑の大地計画」を打ち出し、2003年にはマルワリード用水路を起工しました。
こうした背景を踏まえて、2回目のディスカッションが始まります。
ディスカッション1:支援事業継続の理由
一つ目のお題はこちらでした。
では早速各グループの議論を見て行きましょう!
グループA
「“理不尽な暴力主義と対決したいと思っています”(No.75より)など、戦争に対する怒りがある。」
「西欧的な近代化への怒りもある。そうした中で自然災害が襲って、多分自然災害自体は中村さんにとって諦める理由にはならなかったのでは。変わらない動かないものとして自然を捉える自然観があったのでは。」
「困っている人は助けるよね、ということを当たり前だと思っている点はあると思う。その精神がなくなっている状態は精神の荒廃。」
グループB
「自然と共に生きる、自分が何をすべきかを客観的に捉えていることが中村さんの原動力では。」
「医療活動は対処にしか過ぎないという考えに気づいたから、農業や灌漑事業など様々な側面での活動に挑戦できたのではないか」
グループC
「1番大きな原因に対処を行うことを躊躇しない姿勢、世界情勢への怒り、これらから、中村先生に中に尊厳のある命を守り、その基盤を作り上げるという大義あるいは軸があったと考えられる。」
「現地の中に入り込んで教えていくんじゃなくて、双方向的に地域に根ざしていくことを大事にしている。」
「挑戦を厭わない。戦争や不条理など世の中の現状に押し潰されるのではなく諦めない点から意思が読み取れる」
グループD
「アフガンの旱魃は地球温暖化といわれるが、アフガンだけの話じゃない。他人事ではない。遠い国だが明日は我が身で、他人事ではないという考えもあったのでは」
「“怒り”が原動力になっていると思う。国の富や利益を求めるのみだったことに対する怒りがある。」
グループE
「中村さんは生活に根ざした支援をしている。その支援には主体性があったり衣食住が伴ったりしているものだったのでは。」
「中村さんが実際に暮らして住民と信頼があって、その中で先生が故郷だったアフガンを支援して行きたいという思いが継続に繋がったのでは。」
中村医師への「怒り」に注目しているグループが多いですね。確かに今回の事前配布資料では強く訴える中村医師の言葉が散見されました。また、実際に現地で生活することで地域に根ざしている点も重要だと挙げられました。
どのグループでも議論が盛り上がっていましたが、次のディスカッションに移ります。
ディスカッション2:アフガニスタンと日本の共通点と相違点
次の議題は以下のようなものでした。
会報No. 133では、朝倉の水害についてがあがっています。今回なら洪水からの回復など、故郷の回復という点では、世界で共通している問題ではないでしょうか。そこで、アフガニスタンと日本が抱えている共通点と相違点は何が挙げられるのか、各グループの議論を見て行きましょう!
グループA
「地域に根付く郷土が壊れうる。日本の方が壊れている最中かもしれない。アフガンは自然災害によって故郷を失ったことは過去の話だが、日本は今壊れているのでは。」
「(洪水の流木を活用するアフガニスタンと、ゴミ扱いして輸入木を扱う日本の対比について)買った方が安いし楽だけど、資金がなくなれば自分たちの環境が作れないし、何も残らない」
グループB
「自然と共に生きるっていうのが、日本はできなくなっているという危機が挙げられるということがわかった」
「アフガニスタンでは身の回りの自然を利用して問題に対処しようとするが、日本ではすぐに外部に頼ろうとする」
「便利になればなるほど人との関わりが薄くなるのではないか?」
グループD
「地球温暖化の影響で一部の地域に大きな被害が出る、という形が一緒。」
「故郷を求めようとするアフガニスタンと里山が死んでしまった日本という違いがある」
「自然と関わっているからこそわかることもある。そういう生活も大事じゃないか。」
グループE
「共通点は生命の危機があったこと」
「中村さんが回復したいと言うのは、出身地の福岡の居場所を取り戻したいという思いがあったのでは。現在住んでいるアフガニスタンの人の住む場所も取り戻したいと言うことに似ているようで似ていない面もある。」
アフガニスタンと日本、地理的にも文化的にも全く異なる地域ですが、様々な共通点相違点が上がりました。鏑木先生は「“環境”と“故郷”は意味は違えど重なっている部分がある。表現されている双方に目を配ることが学びがいのあるところではないか」と講義を締めくくられました。
以上が第3講・第4講の内容です。そしてついに次回からは、中村医師と活動を共にした村上さんと藤田さんの講演が始まります!
次回のnoteもお楽しみに!
閲覧いただきありがとうございました!