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研究とベンチャーと数学と(その2)

製造プロセス向けの仮想計測・異常検出・異常診断・制御・最適化などの技術がヒトに対しても適用可能であり,それによって医療・ヘルスケアサービスを創出することができる.そのような研究の具体例と,さらにその製品化による社会実装を目指したベンチャー起業について書いてみる.

この記事は,「研究とベンチャーと数学と(その1)」の続きであり,研究紹介の後に,線形代数などの数学を修得しておくことの重要性を示す,大学生の勉強モチベーション向上を目指す作戦の一部である.

「ヤシマ作戦」みたいな名前があった方が良いのかもしれないな.

製造プロセスから人間へ

前回述べたように,異常をできるだけ早く検出したい,どのような異常が発生したのかを知りたい,現在の状態が良好であるかどうかを知りたい,といったニーズは,製造設備だけでなく,人間にもある.

ここでは,プロセス産業で1990年代から広く利用されている異常検出技術を医療分野の課題「てんかん発作予知」に転用した事例を紹介する.

てんかん

まず,てんかんについて.

てんかんは,脳の過剰な電気活動による発作を主徴とする慢性の疾患で,脳神経系の疾患のなかでは頻度が高く,日本に約100万人の患者がいるといわれています.(日本てんかん学会

このように,てんかんは珍しい病気ではなく,国内外を問わず,およそ100人に1人がてんかん患者である.また,誰もがなる可能性のある病気でもある.それでも,患者の7〜8割は抗てんかん薬を服用することで発作を抑えることができる.一方,残る2〜3割の難治性てんかん患者は,薬物療法が有効でないため,外科手術による治療を検討することになるが,必ずしも外科治療ができるわけでもない.このため,てんかん発作とうまく付き合いながら生活することが必要になる.これは,患者さんやその家族らにとって,負担が大きい.

実際,発作がいつ起きるかわからないため,入浴中に発作が起きて溺れてしまうなどの事故が発生している.また,交通死亡事故が起きると,社会問題としてニュース等で大きく取り上げられる.例えば,京都でも,2012年4月に祇園で7名が死亡するという痛ましい事故があった.

そのような事故をなくし,患者さんやその家族ら安全に安心して暮らせる社会を実現することの社会的意義は大きい.

てんかん発作予知

てんかん発作による事故をなくすためには,発作が起きる前に,患者さんやその家族に「これから発作が起こりそう」と通知できればよい.そうすれば,浴槽から出る,車を駐めるなど,身の安全を確保することができる.また,人前で突然発作が起きてしまうかもしれないという恐れから患者さんを解放することもできる.

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てんかんは脳の疾患であるため,その診断には脳波が用いられる.しかし,日常生活の中で発作予知を行うために,脳波計をずっと身に付けることは現実的でない.そこで,脳波計ではなく,ウェアラブル心電計を用いる.研究で使用しているのは,山川先生(熊本大学)が開発された高性能ウェアラブル心電計だ.

ウェアラブル心電計を用いて,R波を計測する.R波は心臓が血液を送り出すタイミングで出現し,心電図で最も大きなピークとなる.解析対象は,R波とR波の間隔であるRR間隔(RRI)だ.RRIは,自律神経系の活動状態を反映して常に変動しており,ストレスがかかっているか,リラックスしているかによっても変動パターンが異なる.このため,心拍変動(RRIの変動)を解析することで,自律神経系の活動状態をある程度知ることができる.

そうであれば,てんかん発作の兆候を心拍変動解析によって予知することができるかもしれない.

異常検出

製造プロセスを対象とした統計的な異常検出は,1924年にW. A. Shewhartが管理図を提案したことに遡る.荒っぽくまとめると,監視したい変数を決めて,その基準値あるいは平均値のまわりに,上限と下限を設定し,測定値がその上下限を超えたときに,異常が発生したと判断する.このような方法は統計的プロセス管理(SPC)と呼ばれる.

より詳しい説明は↓のコラム参照.

異常検出の考え方:古典的な管理図(YDCコラム)

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SPCは広く,とても広く活用されているが,欠点がある.監視したい変数の数が増えると,まともに異常検出ができなくなるのだ.第1に,間違ったアラームが増える.正常な状態であっても異常だと判断してしまうケースが増え,現場は偽のアラームに悩まされることになる.第2に,変数の相関関係を無視するため,相関関係が崩れるような異常を検出できない.

このため,変数を個別に管理するのではなく,複数の変数を一括して管理する方法が必要になる.

より詳しい説明は↓のコラム参照.

異常検出の考え方:多変数を監視するときの注意(YDCコラム)

多変量統計的プロセス管理(MSPC)

変数を個別に管理するSPCの欠点を克服するために提案されたのが,多変量統計的プロセス管理(MSPC)だ.MSPCは,PCAによる次元圧縮を実施した上で,主成分で張られる部分空間とその直交補空間を別々に管理する方法で,主成分で張られる部分空間はT2統計量によって,その直交補空間はQ統計量によって管理する.このため,MSPCでは,変数間の関係を考慮した管理限界が設定できることに加えて,変数の数に関係なく僅か2つの統計量を監視すればよいことになる.

さらに,MSPCでは正常データのみからモデルを構築する点も重要だ.つまり,異常データがなくても正常運転領域(NOC)を設定して,異常検出ができる.これは,異常データの収集が困難な状況で大きな強みになる.そう,医療分野のデータがまさにそうだ.

より詳しい説明は↓のコラム参照.

多変量統計的プロセス管理(MSPC)(YDCコラム)

【宣伝】さらに詳しくは↓の書籍の第10章に書いてあります.興味のある方,経済的余裕のある方,勢いだけでポチれる方,よろしくお願いします.旧版には書いていないので注意.

橋本,長谷部,加納,「新版 プロセス制御工学」,朝倉書店,2020

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MSPCによるてんかん発作予知

この多変量統計的プロセス管理(MSPC)を用いて,てんかん発作を予知する.発作はいつ起こるかわからないので,発作が起こったとき(その直前)のデータを収集することは極めて難しい.このため,正常データのみから異常検出モデルを構築できるというMSPCの特長が活きる.

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実際に複数の患者さんのデータを用いて,MSPCによるてんかん発作予知の検証を実施した.一例を上図に示してあるが,かなり高い精度でてんかん発作を事前に予知できることが示された.

より詳しい説明は↓の論文参照.無料で読めます.

K. Fujiwara et al., “Epileptic Seizure Prediction Based on Multivariate Statistical Process Control of Heart Rate Variability Features,” IEEE Trans. Biomed. Eng., vol. 63, no. 6, pp. 1321–1332, 2016.

この研究は藤原先生(名古屋大学,その前はヒューマンシステム論分野所属)が中心になって実施したもので,現在も,さらなる性能向上を目指した研究を進めている.

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てんかん発作予知システムでは,ウェアラブル心電計でR波を検知し,そのデータをスマホに送信し,スマホアプリで心拍変動解析を行い,発作の予兆が検知されればユーザに通知する.

心拍変動解析は,てんかん発作予知以外にも利用可能で,例えば,睡眠時無呼吸症候群のスクリーニングやドライバーの居眠り検知といった研究を進めている.

京大発ベンチャー・クアドリティクス株式会社

てんかん発作予知をはじめ,医療・ヘルスケアサービスを製品として社会に送り出すためには,製品化しなければならない.特に,医療機器に該当するものについては,その有効性や安全性が厳しく審査されるため,論文を書いてプロトタイプを作ればほぼ終了というわけにはいかない.

製品化は大学の研究としては実施できないため,製品化を行う会社が必要になる.そのような必要性に迫られて,有志で「クアドリティクス株式会社」を起業した.京都大学発ベンチャーとして,大学からの支援も受けている.

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さて,ヒューマンシステム論分野で,多くの仲間とともに取り組んでいる研究の一部を紹介した.次回,いよいよ,これらの研究に線形代数をはじめとする数学が不可欠であることを見ていこう.

© 2020 Manabu KANO.

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