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研究とベンチャーと数学と(その1)
先日,自分が担当している京大新入生向けの講義に関して,「講義「自然現象と数学」への学生コメント」という記事を書いたところ,自分もこの講義を受けたいなど,色々と反響があった.さらに,線形代数を勉強するモチベーションが上がったという受講生のコメントを見て,自分も線形代数のモチベーションを上げて欲しいという声もあった.そこで,講義で話したことの一部をここで紹介することにした.
プロセスシステム工学
私自身は,化学工学専攻の出身だ.化学工学とは,石油産業や化学産業の製造設備を設計したり運転したりするための学問分野として誕生した.その中でも,プロセスシステム工学という分野でずっと研究を続けている.
私が修士課程を修了して助手に採用された頃(1994年頃)からずっと課題として取り上げてきたのが,プロセス産業の製造現場には大量のデータがあるにもかかわらず,それが活用されていないということだった.
今では,ビッグデータ(もう死語?)という言葉もあり,あるいは人工知能や機械学習という言葉が持て囃され,データを有効活用することの重要性を誰もが当然と思っているように見える.しかし,私がプロセスデータ解析の研究を始めたころは,そのようなことを言っている人は僅かだった.それが私には幸いした.
製造業では,顧客の要求を満たす製品を製造しなければならない.そのために,製造設備を制御する.フィードバック制御とか呼ばれているものだ.しかし,本当に制御したい製品品質はリアルタイムには計測できないことが多い.しかし,制御を諦めれば不良品を発生させてしまうかもしれない.そこで,製品品質を計測する代わりに,何らかのモデルを用いて製品品質を推定し,その推定値を用いてフィードバック制御をするという方法を採用する.この制御方法は推定制御と呼ばれ,推定技術は仮想計測あるいはソフトセンサーと呼ばれる.
他にも,製品や装置の異常をできるだけ早く検出したい(異常検出),どのような異常が発生したのかを知りたい(異常診断),装置や制御システムの能力を十分に発揮できているかを知りたい(制御性能評価),コストミニマムな最適運転を実現したい(最適化),歩留まりと品質を向上させたい,などの強いニーズが現場にはある.
このようなニーズに応える技術を開発できるかどうか.それはひとえにモデルを構築できるかどうかにかかっている.目的にかなうモデルを構築できるなら,課題は解決できる.
第一原理モデル vs. 統計モデル
モデル構築には2つのアプローチがある.1つは,原理原則あるいは物理や化学の法則に基づいて,現象論に基づく第一原理モデル(物理モデル)を構築する方法.もう1つは,データを活用して,統計的な手法によりモデルを構築する方法.後者は,適当な関数を用意して,入力と出力の対応関係を表現できれば十分なので,そうして得られるモデルはブラックボックスモデルと呼ばれる.中身がわからないということだ.その対極にある第一原理モデルは差し詰めホワイトボックスモデルいうことになる.
だが現実には,完全はブラックボックスモデルも,完全なホワイトボックスモデルもない.第一原理とデータをどちらも用いるグレイボックスモデルを構築し,活用する.もちろん,純白に近いグレイボックスモデルもあれば,真黒に近いグレイボックスモデルもある.プロセスシステム工学分野で私が取り組んできたのは,様々なプロセスを対象にして,様々な明度のグレイボックスモデルを構築し,製造現場が抱える課題を解決することだ.
製造設備は,上図の左下の領域で運転されていることも少なくない.そのような,運転員や技術者の経験と勘と度胸に頼った運転を,専門知識とデータに基づく運転に進化させること,それを研究テーマとしてきた.
高炉運転支援システムの開発と実用化
最近の研究を紹介したい.これは,当研究室の社会人博士課程に在籍された橋本氏が取り組まれた研究で,製鉄所の基幹設備である高炉の自動運転の実現に向けて,運転支援システムを開発することを目的としていた.
高炉は極めて複雑で,しかも物凄く大きな設備であり,原料である鉄鉱石とコークスを上から放り込んで,還元反応により酸化鉄を鉄に変化させ,そうしてできた銑鉄を装置下部から抜き出すまでに,8時間ほどかかる.このため,運転が非常に難しく,熟練運転員の手動操作に頼っていた.
高効率で安定な運転を実現するためには,運転の自動化が必要である.そのために,新たに2次元非定常物理モデルを構築し,そのモデルに基づいて,Moving Horizon Estimation (MHE)で高炉内部の状態を推定しながら,非線形モデル予測制御により,運転指標として重要な溶銑温度を精密に制御するための操作量を決定し,それをガイダンスとして運転員に伝えることができる運転支援システムを開発した.
このシステムはJFEスチールで実用化されており,大きな経済効果とCO2削減に貢献している.
構築したモデルは,一種のデジタルツインである.Industry 4.0を実現する上で中核を担う技術といえるだろう.これは一例だが,このような研究開発と実用化を,鉄鋼だけでなく,半導体,製薬,化学など様々な産業分野で進めてきた.
製造プロセスから人間へ
さて,最初の図に戻ろう.
元々の私の研究は製造プロセスを対象としていた.しかし,異常をできるだけ早く検出したい,どのような異常が発生したのかを知りたい,現在の状態が良好であるかどうかを知りたい,といったニーズは,製造設備だけでなく,人間にもある.異常を病気に置き換えれば納得できるだろう.
したがって,製造プロセスを対象に開発してきた技術は,そのまま医療やヘルスケアの分野の課題に適用できる.明日,その話をしよう.
© 2020 Manabu KANO.