なぜ医者を辞めてまで、世界を旅するのか?
「ピピピピ…ピピピピ…」
耳元で無機質なスマホのアラーム音が鳴り響く。
当時は大学5年生(医学部は6年制)。
「うぅ…」と小さく一つ唸り声を上げ、スヌーズを解除する。
朝から容赦ない真夏の天日を浴びながら、
半目を擦って大学までママチャリを漕ぐ。
テスト期間以外は惰性で授業を受ける日々。放課後になれば直帰もしくは部活に顔を出す。夜のバイトに備えて仮眠も必要だ。
私が所属していた部活動はバリバリの運動部で、活動の主体は4年生まで。
病院実習や国家試験の勉強等でなんとなく忙しくなる5年生以降は、文字通り "顔を出す" 程度のことが多い。
少しずつでも着実と、
学生の青春の一コマから離れていく。
"おとな" になるため、立派な医師になるため、
大学生活で怠けきった思考、身体を転換させていく。
入学当初から尊敬していたあの先輩たちも、
同じような過程を踏んでいる。
「うん、何度も見てきたルートだ。」
舗装されたレールの上はとても居心地が良い。
進んでいるだけで正当性が担保され、安心感がある。
この先永遠とも続くレール道が、当時は漠然としすぎて現実味を帯びていなかった。
これで良いのか?
といった一抹の不安を抱えながら。
「よいしょっと」
時は流れ、大学6年生、2月末日。
無事一大イベントの医師国家試験も終え、山積みとなった凄まじい量の参考書、テキスト類を片付ける。
こんな試験は2度と受けるまいと固く誓った。(試験当日は知識がこぼれ落ちないように、両手で頭を支えながら会場に向かいました。それくらい尋常でない量の知識が要求されます笑)
4月からは晴れて新社会人、
新米研修医としての第一歩を踏み出す。
モラトリアム終了のゴングが迫っていた。
残たるメインイベントは卒業式程度で、この期間はみな合間を縫って卒業旅行へと繰り出す。
かくの如く私も卒業旅行、引っ越し準備、書類手続きと忙しい日々を過ごしていた。
そんな中、「ある友人が1ヶ月かけて南米を回っている」との噂を耳にした。
純粋に「いいな〜」と思った。
「アジアならぶらっと一人旅行けるかな。」
なんとなくそう思った。
お金は無かったが、時間はあった。
気づけばスマホで「アジア 格安便」と検索し、
スカイスキャナーのサイトをクリックしていた。
「マレーシアかあ」
超弾丸の思いつき企画であったため、
特に「この建築物が見たい!」とか「これを食べたい!」とかそんな願望もなく、ただただお得に海外に行ける便を調べた。
すると "成田発 → マレーシア便" が2万円弱と格安ではないか!
早朝出発+トランジット経由(ベトナム)のおまけつき。計12時間程度のロングフライトだが大学生には背に腹はかえられぬ。スケジュールを調整し、その場で予約した。
気づけば3月某日、
南国マレーシアの地に1人降り立っていた。
「着いたー!」
首都クアラルンプールに到着し、小汚いゲストハウスに荷物を置く。
はらぺこあおむしだったのでgoogle mapで評価良さげなローカルインドカレー屋をロックオン。
何とか無事に到着し、メニュー表と睨めっこ。
着席してものの10秒程度で店員がやってきた。
「Apa yang anda mahu?(マレー語)」
おそらく注文は何にするかと聞かれている。
私は生粋のカレー愛好家であり、辛さ耐性はそれなりに自信があった。
「Your recommendation please」と意気揚々と答える。
しばらくしてカレーが運ばれる。
カイエンペッパー間違ってひっくり返しちゃった(てへ)ってくらい真っ赤なカレー。店員もどこか自信ありげな表情である。
一口食べてみる。
「ん!?」これまで経験したことない辛さ。
身体も芯から発火し、顔面が痙攣する。
半分くらい残して、無念の退店。
独り異国の地、初戦で完敗した。
ふと街を見渡す。
・木陰で井戸端会議をする地元のおじちゃん達
・オレンジ色の袈裟を着たお坊さん
・スタイリッシュな白人カップル
・頭から足先まで全身を黒い衣装で覆ったムスリムの女性
・ティーカ(額の赤い印)を付け、サリーを身に纏った女性
宗教や人種が違えば、
飛び交う言語も当然のようにさまざま。
英語以外は全然わからない。
英語も正直よくわからない。
「なんか、いい。」
そう思った。
ほとんどの人にとっては
おそらく何気ない日常の一コマであったが、
今も忘れることのない、
今後も忘れることのない、
貴重な瞬間だった。
医学部という狭いコミュニティで生きてきた自分にとって、世界はあまりにも色鮮やかだった。
「もっと世界をみたい、知りたい。」
いつしかそう思うようになった。
そして気づいたら医者をやめていたのだ。
著:Dr.クレヨン