ゆとりをもって出かける雨の日は、ゆっくり開く和傘もわるくない
岐阜市で暮らしているとよく目にする「和傘」。
駅前や公園でライトアップされたり、プロジェクションマッピングされたり。
現在、岐阜で作られている和傘は全国生産の5割を担い、2022年に伝統的工芸品「岐阜和傘」として、国からの指定を受けている。
伝統的工芸品とは、「主として日常生活の用に供されるもの」と定められているが、普段の生活で私が和傘を使用することは、皆無かもしれない。
それでも、一度は岐阜和傘を手にしてみたい。
そんな思いに駆られた私は、長年和傘が作られてきた岐阜市南部、加納本町にあるまちづくり交流センターを訪れた。
和傘のまちで
「中山道加納宿まちづくり交流センター」は、耐震性の問題で2016年に解体された旧加納町役場(登録有形文化財)跡地に建設、2020年10月に開館した。
施設北側には中山道が通り、まちを訪れる人の休憩スペースを兼ねたロビーには、加納のまちや中山道の歴史を紹介する展示がある。
もちろん和傘の展示と、手にすることができる傘の陳列も。
施設の方に許可をもらい、手にしたが開き方が分からない。
「クルクルと回してください」と言われ、その通りにするとゆっくりと開く様子が心地よく、思わず笑みがこぼれた。
急な雨にさっと開く洋傘は重宝するが、ゆとりをもって出かける雨の日は、ゆっくり開く和傘もわるくない。
屋外には和傘の天日干しの演出もある。昭和30年頃までは、加納のあちらこちらで見られた傘干し風景だそう。
加納の和傘作りの特徴は、問屋制家内工業による分業で製造している点である。
傘骨屋、ロクロ屋、繰り込み屋、張り屋、仕上げ屋など、それぞれの工程を専門の職人がこなし、傘問屋が束ねて仕事を割り振る。
分業によるメリットは、量産を可能にし、各地に広く供給できたこと。
江戸時代はもとより昭和20年代後半まで、和傘が日常的に使われていた間、岐阜は和傘で栄えた。
和傘が作られてきた加納地区は、江戸時代初めに、徳川家康の長女亀姫の夫である奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)を城主とした加納藩の城下町。
同じ時期に、五街道の一つである中山道も整備され、美濃16宿といわれた当時の宿場の中で唯一の城下町であった。
当初10万石だった領知高は藩主の交替ごとに変遷し、江戸中期には3万2千石に減少。
藩主となった永井直陳(ながい・なおのぶ)が、下級武士の生計を助けるため和傘作りを奨励したのが本格的な生産の礎で、全国的に名の知れた和傘産地になる。
和傘のある日本の風景をのこすために
戦後洋傘が日本に広がり、昭和30年代以降、和傘生産量は急速に減少した。
岐阜和傘が現在抱える課題について私が知ったのは、ぎふメディアコスモス2階の中央図書館で開催された「おとなの夜学」※に参加した時。
※ 【第32夜】 歌舞伎小道具の現場から語る、岐阜和傘の課題と可能性
(2019年11月12日開催)
和傘の基幹部品であるロクロの職人は、全国で岐阜にただ一人であること。
歌舞伎や舞踊など日本の伝統芸能は、和傘がないと成立しないこと。
後継者の育成は急務であり、クラウドファンディングでその育成資金を募る当日前夜でもあった。
出演者や和傘関係者から直接話を聞いたことで、これまで身近ではなかった岐阜和傘が、急に近くに感じられた。
和傘を愉しみ、未来につなぐ
岐阜和傘を手に入れたい。
ここ数年、ずっと思いつづけてきたが、コロナ禍でもあり踏みきれずにいた。
岐阜市歴史博物館講座「岐阜和傘を作る」で、和傘づくり講座が年に一度開催されていることを知った。
せっかくなら講座に参加して、工程の一部だけでも自分で作ってみたい。
受講申し込みをした。
定員10名の狭き門だが、ことあるごとに、もし当選したら、マイ和傘が出来上がったら、と空想する自分がいて、なんだか毎日が楽しい。
約70年前、和傘は日常的に使われて、岐阜市南部の加納では多くの和傘が作られていた。
非日常に感じる伝統文化や工芸品は、過去の日常から生まれたものも多いことに、今さら気づいた。
身の回りにある文化や歴史のあしあとを探ってみたら、みなさんの毎日も楽しくなるかもしれない。
自分が暮らす地域の文化を、愉しみながら未来につなぐことができたら、それはきっと素敵なことだろう。
追記:記事を書き上げた3週間後、和傘づくり講座の抽選もれ通知が届いた...。