知らなきゃ!できなきゃ!やってなきゃ!で心が苦しくなった時の処方箋
ちょっとした無知や不勉強を自覚して罪悪感を覚えることってありませんか?
好きな作品に対して「あそこの元ネタ、これやで」とやってない作品が挙がると、なんか置いてかれてる気分になったり!
詳しくない話題で議論が進んでいるのを見ると、心がチクチク疼いたり!
いつの日かやらなくなった趣味の領域で活躍している人を見ると、「私もこうなれたんじゃないか」なんて思ったり!
知らなきゃ! できなきゃ! やってなきゃ!
だけど時間は限られてるし、時には知らんぷり決め込むしかない、このもどかしさ!
誰かに相談するほどでもない、こんなぷちストレスが日常に氾濫しているのです!
そんな強迫観念に対し、ちょっとは楽になれそうな考え方を模索してました。
VS. 全知全能
そもそも。世の中、すごい人が多すぎる!
活躍している人ほど目にする機会が多くなります。そんな人が、あらゆる分野に存在します。
そうした複数の猛者が無数に折り重なり、究極の集合知として我々の前に立ち塞がります。
相手は八百万の神みたいなものです。叶うわけがねえ。
つまり、正攻法で立ち向かうことは不可能です。
あらゆる知と技能と経験を一人の人間が常識的な時間で立ち向かえるわけがないのです。ファスト映画したところで無力すぎるのです!
そうなると、考え方をシフトするしか対策はないでしょう。
人類総出の全員野球
僕の場合は、「守備範囲外だから他の人に敢えて任せてる」という考えでちょっと気が楽になりました。
地球レベルに広い野球場があったとして、そこに話題というボールがひっきりなしに飛んでくるわけです。
一見、インターネットでは皆がボールを取っているように見えるのですが、その実、詳しい人が反応しているだけのケースがほとんど。
本来は多対1なのですが、周りを見ていると、つい自分も「捕らなきゃ駄目かな!?」って気になるのが罠なのです。
特に自分の好きな作品や人、得意とする分野に近いほど、「自分が捕らなきゃいけないのでは?」という気になるものです。
疲れがちな人は、自分が担当と思う守備範囲が広すぎるのです。そこはきっと、他の人に活躍させてよい場面だと思うのです。
つまり、だいたいこんな感じに考え直すのです。
From: 好きな作品に対して「あそこの元ネタ、これやで」とやってない作品が挙がって何かやだ
To: 自分が消費していたはずの時間を、他の人が肩代わりした上に気づいてくれてよかった!
From: 詳しくない話題で議論が進んで何かやだ
To: 自分が調べる負担を背負わなくても、他の人が人類のために何かしてくれてお得!
From: いつの日かやらなくなった趣味の領域で活躍している人を見て何かやだ
To: 自分の代わりに活躍してくれるのは、人類レベルで見ていい事だ!
何もかもに手を出そうと思うと、負担が大きすぎます。他の人にえいやっと任せる感覚にして、自分が本当に守備範囲であるとこだけを吟味、専念すればよいのではないでしょうか。
エクストリームトロッコ課題
人生は選択の連続。知った/知らないまま、やった/やってないといった選択のスイッチによって、無限にあり得た過去の自分が殺されてきました。
未来形の話をしても、これから何をやろうか/やるまいかという判断によって、あらゆる未来の自分を殺すことになります。
死者数無限に対して生存者1。そんな超絶残酷エクストリームトロッコ課題。知らなきゃ、やらなきゃというのは、死なせてしまうことへの悔いの念があるからなのかもしれませんね。
ここで肝になるのは、何を選んだとしても結局は生存者1という点です。
物知り人間も所詮は生存者1に過ぎず、守備範囲だって人間1人のまま。どの道、無茶はできないのです。
逆に、知らない、できない、やってないの分岐でしか見えない景色や観点もあります。知らないからこそ立てる守備範囲は絶対に存在します。
例えば、ネタバレを踏むと0の気持ちで鑑賞できなくなります。知るというのは不可逆。手を出さなかったことによる価値もあるはずです。
幸いなことに、消えてしまった自分の立ち位置は大抵、他の人が守備範囲にいてくれます。ならばその負担、任せてしまいましょう。
参考文献がオモチャンという恐怖
オモコロチャンネルという大変低俗な(褒め言葉)Youtubeチャンネルがあり、年単位でハマっています。
何かそれっぽいこと書いてきた割に、今回のお悩みの参考になったのがここ由来という恐怖なので貼っておくのでありました。
あらゆる名作に触れたいが付き合いきれず悩む方の相談。
ジブリ見てない人の話が主な参考点。
知るというのは不可逆って原宿氏が言っていたのはどの動画だっけ…