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ディンプルキー

 母の財布にGPSを付けて2年、方向音痴の93歳をモニターしている。買い物、図書館、友達と銭湯、避暑に公民館、子供用製品だが役に立つ。
 そのGPSが数日全く動かない?電話をしてみると「じつは、鍵が開かなかった」。散歩から戻り、鍵を開けようとしたが、何度やっても回らない。近所の鍵屋へ行ったが、対応してくれない。しかたがない、予備の鍵を持つ息子に連絡しようか。その前にもう一度試すと、今度は回ったという。そんなことが一度起こると、怖くて外出できない。母は独居だ。
 回し方が悪かっただけなのかもしれない。テレビやパソコンが動かないとき、なぜか息子が来るとすぐに治ってしまう。鍵の気まぐれで、いちいち呼ぶのは気が引ける。それで数日黙っていた。
 タクシーを飛ばす。私も試すと鍵は回ったが、ひっかかりがある。予備でも同じだ。問題は鍵穴のシリンダ側にあるようだ。ゴミでも入ったか、ピンが痛んだか。
 きっと母は力いっぱい回そうとしただろう。瓶の蓋が開かないことも多い母の腕力だが、鍵も高齢である。すぐ交換することにした。(ちなみに鍵の寿命は十年だそう)
 鍵屋は、「回らない」「失くした」では対応してくれない。泥棒やストーカーの片棒を担ぐことになってしまう。その家の住人である証拠が必要だ。しかし、母は鍵だけ持って散歩に出ていた。
 運転免許なら顔写真と住所が載っている。しかし、母は免許を持っていない。マイナンバーカードに顔写真はあるが、住所は載っていない。保険証に住所はあるが、顔写真はない。
 母が海外旅行をしていたのは10年以上前。パスポートは切れている。しかし、顔写真と住所が載っている。証拠に使えないか、引っ張り出してみると、住所をインクで書いており、にじんで読めなくなっていた。写真も若い・・・
 とにかく鍵屋を呼ぼう。電話し、事情を話すと、夜には行ける、交換できるという。ただし、都営住宅の場合、都の許可が要る。
 住宅課に電話した。就業時間ぎりぎりだったが、担当者が折り返し電話してきてくれた。
「鍵の状態を見て、交換を検討します」
 いやいや、それでは、しばらく母が外出できない。費用は払うので今夜交換してしまいたい。それに、これまでの安い鍵ではなく、もっと安全な鍵にしたい。
 「ディンプルキーですね、でもお値段が」
 予備の鍵を一つ都に預けてもらう必要がある。それを了解してもらえるなら、自費で交換してもらって構わない。
 交換すれば、鍵が開かないトラブルは解消するだろう。しかし、失くす危険はある。母が室内で倒れる可能性もある。予備鍵は分散して持っておきたい。ディンプルキーは一つ四千円もしたが、追加注文した。
 それにしても、最後まで一人で住むと言い張る母のため、断捨離し、家具、家電、お風呂も新しくした。そうして来るべき日に備えたつもりだったが、鍵は盲点であった。
 じつは在宅医療でも鍵は問題だ。医師が訪問しても、内側から鍵を開けられない患者さんは多い。家族がいつも立ち会えるとは限らない。「鍵は開けておきますから」というご家族もいた。
 クリニックに予備鍵を預ける家族も居るが、寝たきりにでもなれば、医師以外にもケアマネジャー、訪問介護、訪問入浴、看護師、様々な人が出入りすることになる。
 電子錠なら鍵は暗証番号である。多くの人に配布できる。オフィスなどでは導入が始まっているが、母には使いこなせないだろう。スマホが鍵になる製品もあるが、母はスマホを持ってくれない。(それでしかたなくGPSにした)
 なお、マンションの場合、オートロックにも要注意。管理人が居ない夜間や休日に緊急往診して、マンションの入口で地団太を踏むこともある。
さて、今は元気な母は、新しいディンプルキーを自分で住宅課に持って行くという。万一鍵を失くしたとき、もらいに行くのだから覚えておきたいと。しかし、職員の答えは、
「失くしたでお渡しすることはできません」(そりゃそうだ)
 安否に懸念があった場合、たとえば郵便物が異常に溜まっている場合など、を想定した最終手段だった。

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