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娘の決断 #未来のためにできること

娘は学校に通っていない。

とくにいじめがあったわけでもなく、友達も多いほうだった。授業参観のとき、積極的に手を挙げている娘の姿は、誰の目にも順風満帆だった。

「はるちゃんは好きなことがしたいの!」

顔面を高潮させ、目にうっすら涙を浮かべながら、そう私に訴えたのは、小学校に通ってわずかひと月ほどのことだった。

自分はお絵描きをしたいのに、やれ国語だ算数だと、無機質に時間が刻まれていく。それは彼女にとって、とても耐え難いことだった。

世界には、学校に通えない子供たちが2億人以上いるという。貧困や紛争など、理由は様々である。そのような環境に身を置いている人からすると、娘の言い分はただのワガママなのかもしれない。
 
しかし、ひと通り最低限の教育が行き届いた国には、また、その国なりの新たな問題が生じる。

教育とは何か?様々な定義はあるが、現代の教育にとって大切なのは、「正解のない問題について考える」ことだと思う。正解のある問題など、AIに聞けば事足りる時代だからだ。

「なぜ好きな時に好きなことをしてはいけないのか?」という問いに娘はぶつかった。

まだ、7歳という小さな胸に抱いた、大きな疑問。
その疑問を、安易に握り潰すようなことはしたくない。

「じゃあ、好きなことだけをしてたらどうなるか、試してみよっか!」

2年生に進級するはずだった桜の頃、娘は潔く学校を辞めた。

時間割も宿題もない、一日の時間を何に使うのかは自分で決める。そんな自由を求め、デモクラティックスクールに通うことにした。

電車を乗り継ぎ、約90分かけて1人で通う。

「絶対無理!嫌やぁ!ママ一緒に行こう!」

号泣していた娘だが、3ヶ月もすると1人で通えるようになった。

たまに駅を乗り過ごし、半べそを掻きながら電話をしてくる。

「近くの駅員さんに尋ねてごらん」

こうして娘は、困った時は手を挙げて助けを求めることを学んだ。

今年でもう12歳。今も私の隣で、楽しそうに絵を描いている。

親として心配ではないのか?と聞かれることがある。
愚問である。おおいに心配である。

でも、学校に通うことだけが唯一の教育方法ではない。一人一人の特性に応じて異なった教育があってもいいじゃないか。

そんな多様性を認める柔軟な教育環境が整えば、子供たちがもっと輝く未来を創造できるのではないだろうか。

未来のために私ができること。それはお絵描きに夢中になっている娘をそっとしておくことだけである。

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