Really?
長女は学校に行ってない。長男はダウン症。世間から見ればまっこと由々しき事態なのかも知れない。でも私は、この子たちのおかげで大切なことを教えてもらった。
それは、「概念を問い直す」ということだ。
もっと噛み砕いて言うと、「当たり前過ぎて疑問にすら感じることの出来ないこの世の常識を『それ、ホンマ?』といったん立ち止まって疑う視点を持つことが出来るようになった」ということである。
「見てきた物や聞いた事 いままで覚えた全部 でたらめだったら面白い そんな気持ち分るでしょう」
妻のお腹にいる息子がダウン症だとわかったとき、なぜかこの言葉が鮮明に私の頭の中で鳴り響いていた。THE BLUE HEARTS「情熱の薔薇」だ。
これはたぶん、なんとか息子の存在を自分の中で受け入れられるように、障害がある、ダウン症がある、でもそれは間違いなく私の息子なんだ、かけがえのない私の息子なんだ、それをどうしても認めたい、いや、認めなければいけない、そんな悲鳴にも似た心からの叫びが、神の恩寵によりこの曲となって私に到来したのではないかと思っている。
カッコよく言えば「天からの啓示」、ダサく言えば「ただの自己防衛反応」なのかも知れない。
でもひとつだけ言えるのは、この日以来、私は事あるごとに「それ、ホンマ?」と少し俯瞰した目で、世の中を見れるようになったのである。
障害者は不幸ってホンマ?障害者のいる家族の人生はフィニッシュするってホンマ?いや、そもそも障害者と健常者っていう分け方、それホンマ?じゃあ男と女っていう分け方も?え?ホンマ?ホンマにホンマ?
「白って200色あんねん」
アンミカの名言だ。「白黒はっきりさせんかいコラァ!」と、世間では当たり前のように白と黒を二つに分けて考える。しかし、白だけで200色もあるのなら、白から黒に至るまでのグラデーションは絶望的なほど膨大な数になる。
そんなもん、ここまでが白でここからが黒なんてどうやって決める?真ん中の方にあるギリ白っぽい灰色とギリ黒っぽい灰色との間に無理くり線を引いて、「ええか。ここまでが白、ここからが黒や。わかったか。え?なに?自分は灰色の中でも、どっちかいうたらまだ白っぽい方やから白にしてくれ?あかんあかん、そんなん認めたら限りなく黒に近いヤンキーのダークグレーくんが、それやったら俺も白にしてくれやって言い出したらわやくちゃになるやろ。そらお前もいい分はあるやろうけど、な、まあ、とにかく今日からお前は黒やねん。ええな!」と捻じ伏せられる。そんな分け方でいいのかと。そこまでして白黒はっきりさせなあかんかと。そんなことするから、「あいつちょっと生意気じゃね?」と白組内でオフホワイトくんがいじめられることになるんじゃないのかと。
「はるちゃんは好きなことがしたいの」
ある日、小学一年生の娘は、頬をふくらませ、顔を真っ赤にして私に訴えた。
絵を描いたり、料理をしたり、要するに何かを創作するのが大好きな娘は、永遠なるいまを時間割という大人が決めたルールによって暴力的に刻まれることに違和感を覚えた。自分の意志とは無関係に、やれ国語だ算数だと、機械的に、無機質に、ことが進められていく。
「人はなぜ、好きなときに好きなことしてはいけないのだろうか?」
哲学的な問いがわずか七歳の娘に訪れる。その答えを求めるべく、彼女は学校をやめた。今はデモクラティックスクールに通っている。時間割も宿題もない、一日をどう過ごすのかは自分で決める。絵を描きたければ描けばいい、ゲームをしたければすればいい、休みたいときは休めばいい。
「そんなんで大丈夫なん?」
「親として心配じゃないの?」
知人や親戚達は心配する。そこで私は胸を張ってこう言い返す。
「おおいに心配である」と。
想像してほしい。ほとんどの子は学校に行っている。仲良しだったゆいちゃんもたまちゃんもみさきちゃんも、みんな学校に行っている。なのに娘は家で一日中お絵かきをしている。本当にこれで良かったのだろうかと思うこともある。
だがしかし、娘と会話をしていてドキッとさせられることがある。
「スクールに通ってる、あの黒いメガネの髪の長い子、あの子は男の子?女の子?」
「知らなーい」
「名前は?」
「あだ名しか知らん」
「年上?年下?」
「だから知らんって!」
あまりその子に興味がないのかな、と思って黙っていたら、
「あのさ、別にあの子が男の子でも女の子でも、年上でも年下でも、そんなんどうでもいいねん。あの子はあの子やねん」
衝撃だった。言葉を失った。
性別、年齢、生まれた場所、目の色や肌の色、それってホンマにいる?そんなものただの記号ではないのかと問われているような気持ちになった。
人は目の前にあるものを、区別、分類することによって初めてそれと認識できる。だから私は無意識に年齢や性別、名前などを参考に、いわゆるレッテルを貼ることにより、その子を認識しようとしていた。
だが、娘にとってそんなものはどうでもいいのである。目の前にいるその子を、その存在を、何の偏見もなくただあるがままをあるがままに受容している。それまさに神の御業である。
子供たちのおかげで、私の常識、今まで積み上げてきたものがガラガラと音を立てて崩れていく。パラダイムがシフトする。コペルニクス的に転回する。ありがとう、君たちの親でよかった。
これから先、まだまだ色んな事があるだろう。悔しくて、泣きたくて、悲しみに震える夜もあるだろう。
そんな時は、立ち止まってゆっくり考えよう。
「それ、ホンマ?」って。
大丈夫。答えはきっと奥の方、心のずっと奥の方に、あるはずだから。