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飲酒デススト

 明日は休みなので二日酔いし放題ということで、一人で勝手に飲みながら書くというやつをやってみる。

 さて、俺は四六時中脳内でデスストの文句を垂れている人間であり、それはそれだけあのコジマプロダクションのゲームに対して愛憎入り交じる感情を抱いていることの証左でもある。故にこそここで一度デスストに対する俺の私見をまとめてみるのも一興である。

 とはいえ、一応明記しておくと、飲みながら書いたからといって特に俺の責任がなくなるわけではないので、以下の文責は全て俺が負うものである。

 んで思うに、デスストの繋がるというテーマは「二次会でフィリピンパブ行くぜうぇーい!」というホモソーシャル上司的な発想に近い。サムやヒッグスなどの、表面上は人々が繋がることに対して懐疑的なキャラクターを出すことでゲームのテーマに多様な視点を取り入れているように見せかけているが、しかしその実態は繋がることこそ絶対善であるという押しつけがましい姿勢でいる。それは全ての黒幕アメリを殺せなかったり、泣きわめくばかりで非常に喧しく邪魔くさいBBを道端にポイ投げ放置できなかったり、承認欲求に犯された略奪者や身勝手な無政府主義の反政府勢力どもを射殺できない(射殺するととんでもないデメリットが発生する)といった、殺さず奪わずというクリエイターの思想を体現することばかりに熱心で、そうした理想の実現に対して不都合なゲームの方向性が排されていることからも明らかだ。

 それが実に性に合わない。ゲームとはインタラクティブなものであるべきだ。目の前の人間を殺すか殺さないか。それを選択する権利がプレイヤーにはある。そしてクリエイター側がそうした過度に恣意的な選択肢を配置するのはゲームとして実に窮屈だ。

 これが映画であるなら文句を垂れることはない。映画とはスクリーンから垂れ流されるものを受容する以外の受け取り方ができないメディア形式であるからだ。だが俺はゲームに対して映画としての面白さではなく、ゲームとしての面白さを求めているのだ。もしそうした押しつけがましいことがしたいのであれば黙って映画を作ればよろしい。また、仮にこれが映画だとしても、無駄に見づらいワンカット長回しを多用する映画を誰が好んで観るのか。これを快適と思う客などいるまい。こうした作りをあえて採用する理由は「こんな野心的な映像を作れる俺」に対する小島秀夫の自己陶酔以外の何物でもないだろう。不自然な長回しなど目立ちたがり屋がやることだ。

 そういった恣意性を孕んでいることがデスストの欠点だ。俺は過度な繋がりは拒否したいし、それを押し付けられることも拒否したい。心底不快である。

 小島秀夫はXを見る限り、本人も会社のスタッフを集めてBBQ開くような社交的な人なのでそういった繋がるという性質がゲームに反映されることは特に不思議なことではないだろう(それが悪いと言いたいわけではないことに留意されたし)。しかし全人類がそのBBQに加わりたいと思うだろうか。デスストが描く「繋がり」は、必ずしもプレイヤー全員が共感できるものではない。例えば、俺はよくAmazonを利用するが、配達員に商品を届けてもらう過程は、確かに「繋がり」の一種と言える。しかし、この繋がりは、人々の温かい交流というよりも、効率的な物資の移動という、より合理的な側面が強い。そうしたインフラとしての繋がりは必要なので求めるが、無駄なBBQ的繋がりはごめん被る。作中では一応インフラを整えて人々の生活を快適にするため、という体を成しているが、繋がりを拒否する人のところにまで凸ってあれこれしてやり、最終的に改心させる辺りのおぞましさは未開の地に住む原住民を教化して悦に浸るフロンティア精神旺盛な侵略者のそれである。

 また、関係の築けている個人間でBBQするならともかく、そのノリをそっくりそのまま世界に敷衍させようというデスストの目論見は誇大妄想に近い。小島秀夫のインタビューを読む限り、どうもこの人はゲームによる啓蒙を目指しているように見えるが、言ってしまえばそれは押しつけがましい独りよがりな説教であり、そんなことで世の中を変えられるのなら世界はとっくに平和に統合されているだろう。それはただの「みんなで『We Are The World』歌えば世界がひとつになる」レベルの世迷言に過ぎぬのは小学生でも分かる。

 前述したようにデススト内にはヒッグスのようにそうした形の繋がりに対してある種懐疑的なキャラも登場するが、どうにも物語上の対立軸を挟んだ“敵”としての役割を要請されたために存在しているようにしか見えぬ。

 そも、そうした分断による対立構造を採用せねばエンタメとして成立しない事自体が繋がるというテーマを否定しているのだ。繋がりが大事大事と言っておきながら結局のところ分断によってゲームを成立させて金を儲けているではないか。さらに言えば繋がりを持つからあのような諍いが生まれるのだ。基本的に世の中はある程度の分断を要するのである。

 現実は悲惨であるからこそフィクションでこそ繋がるという理想を体現するといった考えならばわからんでもないが、ああしたフォトリアルな見た目をしておいてそのようなことを抜かされるのはどうにもちぐはぐだ。綺麗事を抜かすならもっとデフォルメしてほしい。

 

 ただデスストのアートワークスはたしかに非常に興味深いものがある。アクロニウムを参考にしたというブリッジズのスーツであったり、既存のアメリカのイメージとかけ離れた北欧あたりの自然風景を思わせる緑豊かなフィールドなどは、小島秀夫が言うような「画一化されつつある昨今のゲーム群の世界観」とは異色である。

 俺はゲームとは空間の演出であると考えている。これは映画と比較するとわかりやすいだろう。

 ゲームが空間の演出であるあるのに対し、映画とは大雑把に言ってしまえば、時間の演出である。ショットをカットで繋ぎ、それらをシーンとして構成し、さらに繋ぎ合わせていくことで一つの映画として完成する。動画という形式が持つスムーズな時間の連続性が積み重なっていくことによって、こことは違う、一つの世界を開拓していくのだ。これは逆に言うと漫画のようにどこかでコマを挟んで区切る、ということができないということだ。マイケル・ベイのサークルショットを思い浮かべてもらえばわかるかもしれないが、あれを漫画で再現することはできない。あれはワンカットの中に連続した時間を収めることで成立しているものであり、それ故に映画というメディア形式の中でしか成立しない演出だと俺は考えている。コマによって区切られた漫画には不可能な所業だ。

 映画はそのメディア形式ゆえに監督の意のままに時間をコントロールし、それに指向性をもたせることができる。だがことゲームに於いてはインタラクティブ性を持つがゆえに(一部を除いて)そうした方法で世界を表現できない。では何をもって世界を表現するのか?

 そう、空間の演出だ。

 小物から景観に至るまで、大小さまざまなモノのディテールを積み重ねることによって別の世界が誕生する。Falloutを例に引くなら、核弾頭はもちろんのこと、コーラのキャップに至るまで、何かしらのドラマを持っている。

 つまりそれら一つ一つが、そこに孕んだナラティブを発揮することでこことは異なる空間を現出させ、それらによって一つの世界を体験することが可能となるのだ。

 デスストはそうした景観やファッション、装備、小物に至るまで作り込まれており、それらによって極めて奥ゆかしい世界観が構築されている。これは一つの美点といっていいと思う。画一化された世界観であるならば、こうしたポエジー溢れる体験はできなかっただろう。

 が、その高い個別的評価をそのまま全体評価に直結させるのは些か早計に過ぎるのではなかろうか。無論それが絶対的に間違いなわけではないが、何を前提に評価するにしてもその評価軸自体に一定の根拠と説明が必要であろう。

 俺個人の意見としてはそれがゲーム作品である以上、ゲームデザインの評価が全体的な評価の中心に配置すべきだと考える。

 そしてデスストはゲームとしてとてもとても退屈だ。目玉である移動に楽しみがない。踏ん張る、歩く、トライクでゴリ押しする、程度のアクションしかない。……いや、もっとあったのやもしれぬが特に印象に残っていない(ジップ?使わなかったなあ……)。

 

 余談だが、更に言うなら、その移動の方法についても問題がある。俺は発売日にプレイしたので今はどうなのかは知らんが、梯子の上に梯子を重ねて置けないのは怠慢としか言いようがないと思った。

 閑話休題。

 

 これはつまりプレイヤーへの導入が下手だということだ。最近クリアしたDOOMなんかはわざわざゲームをポーズして説明ウィンドウを出したりと、本当にやりすぎというくらいに導入が丁寧だった。ただ親切だが甘くはない。集中して攻略を進めていかなければ低難易度でも割とやられてしまう。そうした親切さと厳しさの釣り合いが取れていた。

 しかしデスストにはそのような導入は見受けられない。プレイヤーに「色々な攻略法を試してやるぞ!」と思わせるためのレールが敷かれていないのだ。その割にゲーム自体はぬるくて結構適当にやってもクリアできてしまう。導入は適当だがゲームはぬるい。これは逆であった方が良かったのではないかと思う。こうした適当さがスペクタクルを欠く要因になってしまったのではないかと思う。

 ただこれらの文句は既存のゲームを評価する際の尺度に基づいていることは留意されたし。つまりデスストはエポックメイキングすぎて未だ世に「デスストというジャンルための評価軸」というものが存在しないが故にこのような物言いをしている部分はある……のかもしれない。

 今思い返せば、デスストにはスペクタクルというものが皆無だった。それは主体性を持つ敵を倒すことではなく、意思のない過酷な自然と幽霊(BTは一応意思らしきものはあるが、坂を下るときのボタン操作とBTを回避する時の息止め操作は似たようなものなので同一の「障害カテゴリ」に加えちまえ)を乗り越える過程や乗り越えてたどり着いた先で得られるささやかな繋がりの喜びというものに比重を置いていたからなのやもしれぬ。つまりデスストというゲームはスペクタクルではなく、チルい要素を重要視したゲームなのだ。であるならばあのような平坦なゲームも納得がいく。

 ただ問題は途中途中にボス戦を配置したりと、日和見的に置かれたスペクタクルが、プレイヤー(俺)がそうした意図を汲み取ることを阻害しているのである。これならボス戦とかなくしてひたすらにチルい要素を全面に押し出すべきではなかったのか、と思わずにはいられない。つまり既存のゲームの文法から外れたものを作っているにもかかわらず、既存のゲームの要素を織り込んでしまったことに問題があったように思う。全く新しいジャンルを作り上げたいのならそうしたどっちつかずなことは控えて欲しかったものだ。

 デスストは種田山頭火の自由律俳句を見た時に近い感覚を覚える。つまりなんというかセオリーを無視した結果つまらないものが出来上がったという感じがすごいする。確かにゲーム業界に新たな風を吹き込んだ作品であることは間違いないため、10年後も語られ続けるだろうが、「こういう異色作があった」という形に収束するのではあるまいか。無論未来のことなど誰にも分からんし、ここから着想した人がデスストのシステムをとてつもなくグレードアップさせてゲーム史に燦然と輝くラジカルな作品を作り上げる可能性もあるだろうが、GTAのような即物的で、自在感や全能感を呼び起こす作品が人々の支持を集めていることを考えると、そうした「ゲームに最も求められている要素」の薄いデスストは「人を選ぶゲーム」として名を残すのではないかと思う。

 デススト2でこの予想が覆されることを祈っている。

おわり





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