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恋愛モノが大・大・大嫌いな人間が「花束みたいな恋をした」を観に行ったら大・大嫌いくらいには良くなった
エヴァムードに湧く世間の傍ら、気にかかる映画があった(エヴァも初日に見たけど)。それは「花束みたいな恋をした」。今更だけれど。しかも、普段映画なんて高尚なものに触れないせいか、2回も観た。
さて、恋愛モノが大・大・大嫌いな(題名ママ)僕が、なぜ「花束みたいな恋をした」を観に行こうと思ったのか?観て何を思ったのか?色々な持論を交えつつ書いていこうと思う。
※まだ見ていない方も読めるような記事にしたかったのですがそうはいかず、ネタバレをある程度含むため、避けたい方はブラウザバックを推奨します。
※ネタバレを含むけれど、それでもちょっとだけ観てみたくなるかもしれないということもお伝えします。
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■超大雑把な映画のあらすじ
終電を逃したことで出会った麦と絹。本、音楽、ツッコみどころ・・・恐ろしいほど価値観が似通っていた二人はすぐさま恋に落ちる。その生活は幸せに他ならないものであり、やがて流れるように同棲が始まった。
その後フリーターを経て就職し、次第に二人は忙しい日々を送るように。仕事も人付き合いも増えたことで一緒の時間は減り、生活や価値観にすれ違いが出始める。
当初「運命的」、ただそれだけで片付いていた二人の恋愛だが、成長と時間に伴ってやがてその側面は薄れ、現実的な恋愛と向き合う必要があった。
紆余曲折を経て別れ、4年間の恋愛が終わる。別れは決めたものの、同棲解消には数か月の時間を要した。
皮肉なことに、その時間はこれまでの二人の溝を埋めるかのような、恋愛のはじまりを思い出させるような、とても素晴らしいものであった。
一年後。それぞれ新しい恋人を見つけた麦と絹は、同じくそれぞれのデート中に偶然すれ違う。二人は言葉は交わさなかったものの、「あの頃」にふと思いを馳せる。その夜、麦はGoogleのストリートビューに「あの頃」の二人が映っているのを見つける。とても良い顔の麦。スタッフロール。
…こんな感じで合ってる!?更に大雑把にすると、
自分たちは特別で、だからその恋愛も特別だ、と思っていた二人💗…だけど社会の荒波に飲まれていく中で自分がなりたくなかった人間になって、結局自分たちも周りと同じだな、という事がわかってしまって、だからこそあの頃の恋愛が輝いて見えるね、っていうような等身大で典型で卑近な恋愛模様を描いた作品です。
👆左が菅田将暉演じる「山音麦」、右が有村架純演じる「八谷絹」。
■なぜ僕が恋愛モノを苦手とするのか
・恋愛モノ及び恋愛描写の「予定調和」感
個人の非常に偏った意見だということは承知して頂きたい。異論も認める。その上で言うのだが、僕は映画・アニメ・ドラマ媒体問わず「予定調和」感がとても苦手である。「嫌い」と書くと言葉が鋭くなってしまうのでそこはタイトルだけに留めておく。
恋愛はまあ、簡潔に言えば答えが無くて難しいものだと自分なりに考えるところはあるのだが、恋愛「モノ」になると何かがおかしくなる!何かがおかしいぞ!
ちょっとステレオタイプな例。顔立ちの整ったヒーローとヒロインがいて、(加えて片方は地味キャラで、とか。美形の癖に!)結末なんて分かってるのにああでもないこうでもないと煩悶したりする。その彼らの間に生じる出来事とか、感情とか、恋愛が実っても実らなくても、その全てが仕組まれているかのような、「トゥルーマン・ショー」めいたものを感じてしまって、どこか冷めた目で見てしまう。彼らに自身を投影して、所謂「キュンキュン」している人に対しても同じ。
👆何か上手く言えないけど、こういうやつ🤬リアリティの「リ」の字もない!眩しすぎる。全くもってけしからん。何か「貴方はお呼びじゃありませんよ」みたいなこと言われてるような気になるし。決して羨ましい訳ではない…!誰かは知らないけど勝手に白羽の矢に立たせてごめん。
もう一つ。世の中の恋愛映画はひとくくりに纏めるのが憚られるほどジャンルが細分化されており、シチュエーションひとつとってもそれぞれ異なるものになっている。恋愛モノに疎くてもそこまでは分かる。
…頭では分かるのだが、心では分からない。どうしても「男と女が色々あって付き合ったり別れたりっていう根本は同じなのに、何でこんなに種類があるんだ?」と考えてしまう。本当に申し訳ない。
身も蓋も無い事を言ってしまえば、僕が感じてるそれは、サスペンス・コメディ・ドラマ…全てのジャンルに言えることなのだが、何か知らずにコンプレックスを抱えているのか、恋愛モノにだけやたらと酷いバイアスがかかってしまっている。
つまり僕は、僕自身すらその理由を具体的に述べられない酷い恋愛モノ差別主義者である。そしてそのために、恋愛モノが苦手なのである。この場を借りて、恋愛を尊ぶ全ての方にお詫び申し上げる。
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…恋愛モノが嫌いな僕の事を嫌いになってしまった方はちょっと待って欲しい。本当に心から嫌いだったら?0から100で表して100嫌いだったとしたら?僕が今回自ら映画館へ足を運んだことの説明がつかない。
ということは、「花束みたいな恋をした」はありふれた恋愛映画ではなく、そして僕もまた「恋愛」という言葉が示すような、文字通りの恋して愛する部分だけを求めて「花束みたいな恋をした」を鑑賞しに行ったわけではないということになる。
■「カップルで観に行くと別れる」という噂。そして、その理由
僕がこの映画を観てみようと思ったのは、そんな噂を聞いたからだ。真実を確かめるべくアマゾン奥地へと向かっていくような好奇心だけが動機になった。そして、その噂がまあ確かかもしれない、と思う節はそう言われてみればいくつかあった。
強いて言うなら、二人が運命的な結ばれ方をしている、と信じて止まないような、付き合いたての熱々カップルは別れる。
そういう運命共同体達からしたら、自分達に酷似しているはずの恋愛の起と承と転と結を第三者視点で見ていくわけだから、多少なりとも冷めるというか、嫌でも考えさせられる部分があるだろう。…余程おめでたくなければ。
でも、それ以外の特に若いカップルについては、麦と絹の恋愛が現実指向へとシフトしていく過程を観て、むしろ心構えできるというか、(良い意味で)より現実的な付き合い方ができるというか、一周回って恋愛指南書的なものになり得るんじゃないか、みたいなことも考えた。
だから、「カップルで観に行くと別れる」という噂は半分本当で、半分嘘。
理由としてもう一つ。この映画で描かれている恋愛は、端的に言うと先細っていく。出会い・好きなもの・価値観etc、全てが「運命」の二文字で片付けてしまえるほど強烈で心地良いものであったために、付き合い初め(~同棲開始)がピークとなってしまっている。スタートが理想になってしまっている。現実でも共通の何かから恋愛が…みたいなものはしばしばあるけど、その部分はあくまできっかけにしか過ぎない。人付き合いに深みを出す手段であって、目的ではない。
同じようなことを先にも書いたが、この映画は、
恋愛する人々に対して、大なり小なりそれを一度冷静に、客観的に見つめ直すことを余儀なくさせ、「あなたが運命だ、と思っているそれは運命でもなんでもないですよ」と慈悲もなく両断するもの
である。カップルが別れると噂される理由はそこにある。
…いつまでも恋して愛するだけの恋愛をしている訳にはいかず、何処かの時期でうまく折り合いをつけないといけない。なにもそれは大層なことではなく、勉強と部活が忙しくなったからとか、就職して仕事や仕事関係のお付き合いが増えたからとか、そんなのは誰にでも訪れる。学生にもフリーターにも社会人にも、大人も子供もお姉さんにも、本当に誰にでも。
もう一つ。多分これは僕が冷たい人間だからだと思うが、麦と絹の恋愛に少なからず既視感を覚え、自分を重ねた僕ですら別段涙が出たりするような事はなかった。似たような恋愛をしていない人には多分刺さらない上に全体的につまらない物として映るとは思った。まあちょっと麦と絹の恋愛は上手く始まりすぎた。
■その他、観ていて思ったこと
・「靴」は2人の距離感の暗喩か?
当初の二人は靴も同じものを履いていた。ファミレスで話すシーンでは足元が。二人が同棲を始めたシーンでは、部屋を引きで見せて最後にお揃いの靴が映る。すれ違いが増え始めてからのシーンでも同じようなアングルが出てくるものの、靴はお揃いではなく(履かないから片付けた?)、それぞれの仕事用のものへ…。
ここで大事なのは靴そのものではない。すれ違いというのは必ずしも心理的な、心の距離だけを指すものではなくて、お揃いの物/貰った物を使わなくなるとか、共通の趣味があったのに片方が飽きちゃうとか、可視的な、表面的な部分でも起こり得るよな、みたいなことを考えた。
・「運命」なんてものは、「とても低い確率」のことを我々が都合よく言い換えているだけに過ぎない
お互いに同じ駅で、終電に乗ろうとして、押井守を知っていて、ジャンケンのシステムに疑問を持っていて、読む本が同じで、靴が同じで、「ロード・オブ・ザ・リング」を知っていて、電車に乗ることを「電車に揺られる」と表現して…。麦と絹の出会いは、確かに「運命」と呼べるかもしれない。
恋愛においては、二人のような言語化しづらい拘りと自分の恋愛だけは有象無象とは違うという思い込みは最初には誰もが持っているものだ。だから、一般に言えば「運命」かもしれないそれも、僕に言わせてみればそんなことはない。
僕は恋愛モノだけでなく数学も大嫌いなのだが、少し確率のお話をしよう。
麦や絹になったつもりで考えてみてほしい。異性が100万人いるとする。条件に対し、単純にそうかそうでないかで2分の1に減らしていくとして、
使っている駅が同じ→50万人。押井守を知っている→25万人。履いている靴が同じ→12万と5000人。好きな作家の傾向が同じ→6万と2500人。「ロード・オブ・ザ・リング」を知っている→3万と1250人。
何てことだ。たった5つしか条件を挙げていないにもかかわらず、残りの、心の琴線に触れるような異性は当初の約3%にまで減ってしまった。当然条件が5つに留まるはずもなく…
各々がここから更に篩にかけていくとして、一体最後に何人が残るというのだろうか?
前提の確率からおかしいが、とかく理想的な出会いは天文学的数字である。恋愛とはその条件に自分で折り合いをつけていき、当たるまで引く、出会うまで出会っていく、クジのようなものである。だから低い確率のそれを当てることは、辛うじて「幸運」とは言えど「運命」とは呼ばないだろう。恋愛というのはそういうことだ多分。
というのは何より自分が一番分かってるいるのだけど、そんな現実主義で冷めた僕だからこそ、自分の恋愛だけはどこか運命的(運命って使っちゃった)であってほしい…みたいなこともまた考えている。…無情だ。そんなご都合主義の僕を救い給うクピードーは、どの世界の神話にも伝わってはいない。
・麦の価値観が次第に180度変わっていく
…あれ、麦、いつのまにか絹が嫌う人種に近づいちゃってない?しかも、「絵を描くのが好き」って言ってやりたい事を仕事にしようとしてたのは君では…?あと絹の応援しないの…?
みたいな感じで(バレるので詳細は伏す)、あの頃あったトキメキを次第に二人の間に感じられなくなっていくのだが、「二人のすれ違い」という表現はやや語弊があったかもしれない。
麦が一方的に擦れ過ぎてた(世間慣れしすぎた)のが原因。絹は変わらずいい子。
二人とも幸せになろうとしているのは同じなのに、そこに向かうための手段や考え方が悉くズレていってる所がもどかしかった。勿論麦の考えも間違いではないんだけれど。このあたりで、絹と同じように「あの頃の麦はこんなじゃなかったのになぁ…」とか考え始めた。どっちかというと僕は麦派の人間なんだけど。
・ディテールが何か変に生々しい
別れ話になって意外と麦(男)側が「別れたくない」って引き留めようとするところとか、反対に絹(女)側の方はそういう場面だと既に意思が固くて冷静な所とか、かと思ったら別れた後の方が会話が弾むとか、既視感。何かグサッときた。
あと、絹が渡した本を麦が目の前で雑に置くシーン。麦、そういうのやめた方がいいぞ!意外と女の人ってそういうとこ見てるぞ!俗に言う女の人の共感性の高さってこういう場面で牙を向くぞ!物への態度=自分への態度みたいな感じに捉えたりしてるぞ!みたいな。見ててヒヤヒヤしたが余計なお世話か。
あ、あと散りばめられてるワード。「ゼルダの伝説」だの「ゴールデンカムイ」だの「パズドラ」だの。フィクションなのだが、二人の恋愛に小気味良いリアリティが出ている。観る側に「ああ、そんなことあったな」を感じさせるというか。だからそういう小道具(?)の使い方は多分、製作側の意図する通りに機能している。
あ、あと…何て言うかラブシーンもいい意味で臭くない。「する」シーンも当然あるんだけど、説教じみてないというか、押しつけがましくないというか、ありふれてるというか。イイ。恋愛映画大して知らないけど。
・流行りの「勿忘」は劇中で一切流れない
流れない!あくまでインスパイアソングらしい。しかしこれだけは言わせて頂きたい。見終えた後、間違いなく「キノコ帝国」の「クロノスタシス」が聴きたくなる。聴きたくなるし、僕が「花束」を紹介する中でこの曲をセットで人に勧めたくなるように、貴方もそうなる。
👆♪【クロノスタシス】って知ってる~? もしイヤホンで聴くなら、必ずLとR両方の耳で、だ。
もうひとつ。
👆Awesome City Clubは劇中歌が最も多く5曲ほど挿入されているアーティストである。物語の世界観の形成に少なからず貢献している…かも?
■で、「花束みたいな恋」ってどんな恋なの?
について考える前に、そも「花束」とは何であるかについて考えてみる。
国語辞典によれば「草や花を何本か束ねたもの」。調べるまでもなかった。それ以上でも以下でもなくそういうことである。となると、そのものと言うよりかは、花束を贈る場面だとか、そこに付随する感情だとかに注目する必要がある。
花束は一般に美しく綺麗なものであり、相手への感謝・恋慕・敬意その他が込められている。贈られた側は(恐らく)飾り、鑑賞し、そのたびに贈り手に思いを馳せる。
トートロジーだが、つまりは「花束みたいな恋」とは、「水差しに花束を挿して、それが枯れていく様を見届けるが如く、心に飾り、鑑賞し、そのたびに花束(ここでは=恋)の贈り手に思いを馳せる恋」だと結論付けることができる。花束を見た時の形容しがたい高揚のような、しかし心の中に限れば枯れることのないその美しさ、輝かしさを二人は獲得した。題名通りの「花束みたいな恋をした」のである。
そう考えると、絹と別れた後にGoogleのストリートビューにかつての二人を見つけた時の麦の表情がなぜ悲しみの類でなく、むしろ反対とも言える満面の笑みだったのか合点がいく。麦が画面の向こうに見たのはストリートビューではなく――いや、確かにそうなのだが――かつての何一つ不自由しなかった、後になってみればファンタジーのような輝かしい恋だった、花束そのものだった、という訳である。
👆こんな画像を見れば、それだけで僕らもその疑似体験ができるということだろうか?「まだ枯れない花を 君に添えてさ」のフレーズを思いだしたが…花は花でもそれは「ドライフラワー」か…。
しかし僕は、誰かに思いを込めて花束を贈るようなロマンチズムの実践者ではなく、誰かから花束を贈られるような惜しまれる人間でもないため、この主張は花束について、そしてそんな恋について僕が想像し得るところの稚拙な限界点である、ということには注意されたい。
■結論:合う合わないこそあるものの、考えさせられる部分は多かった
たまたま僕が「花束みたいな恋をした」と同じような経験をしていて、知らずにたまたま観て、たまたま刺さった、というだけなのだが、仮にそういう経験をしていなくても、誰か人と深く付き合っていくってそういうことなのね、嗚呼。みたいなことを僕ならやっぱり感じたかもしれない。
が、そうでない人にはきっと(悪く言っている訳ではない)、どこか麦と絹の恋愛が人ごとのように見えてしまうし、何を見せられているんだと感じてしまうかも。
2回目は友人と行って、そのあとああでもないこうでもないと感想を言い合ったが、友人と僕のそれは感性が大きく異なるものだった。「とか書いてくれたらなおよかったわ笑」と言われたのでこの文章を追記。
素直にオススメしたいが、迷う。考えさせられる部分は多かったが、合う合わないがある。「――これはきっと、私たちの物語。」というキャッチコピー的な文が公式サイトに載っているのだが、いや、誰の恋も等しく花束のようなものであるはずはないなと、それは綺麗事かなと、そう思った。
…いや、でも!少々マッチポンプ気味だが、ネガティブ・キャンペーンじみてしまったこの空気を打破しよう。敢えて言おう、
「花束みたいな恋をした」は良い映画だった。観て良かったと思った。麦と絹の恋愛が何か他人事ではないように思えてならなかった。だから、これを読んだ貴方も観に行ってみて欲しい。自分で「素敵だったな」と思える恋愛やテーマに沿う恋愛観を持っているなら尚更考えさせられるものがあると思う。
大・大・大嫌いだった恋愛モノが大・大嫌いくらいには良くなった。対して変化が無いように思われるが、自分の中では結構な方だ。
誰かに伝えたくなるような感情を覚えたのは久しぶりだった。そういう意味でも「花束みたいな恋をした」は当たりだった。
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こんな僕の文章を読んで下さって本当にありがとうございました。何か青二才の癖に恋愛がどうとか偉そうに講釈垂れてしまった気がします。生意気言って本当にすいませんでした。今回はここまでにします…。
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映画の上映期間は大体2~3か月くらいらしい。「花束みたいな恋をした」は今年の1月公開。実はもうそんなに猶予がない。観たいなら急ぐのだ!どうしてもという場合は同題名の小説を読むのもアリ。
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