見出し画像

台風10号、今この状況で思いだしたこと

ビジネス気学コンサルタントの永井 堂元(ながい たかゆき)です。
台風10号の進路が気になってきました。

今日は、この状況を見ながら過去思い出したこと、
感じていることについて綴ってみたいと思います。

台風の記憶

①最初の台風の直撃経験は、ボクが幼稚園の時です。
当時、両親と神戸市の借家に住んでおりました。
晩ご飯を食べて、しばらくしていると、突然強い風で家の電気が
消えたかと思ったら、そのまま屋根が吹き飛ばされました。

本当にマンガのように屋根の部分がなくなってしまいました。
近所の知人宅に避難させてもらって一夜を過ごしました。

これをきっかけに、父親は「自分の家を持ちたい」という
気持ちが強くなったらしく、後年、その借家の場所の土地を
買い取って家を建てました。

ボクが小学校の低学年の時です。
父が「災害に強い家を作りたい」
ということで、
基礎工事や地下室部分に、かなりしっかり
お金をかけて設計したので、
まるで防空壕のような堅牢な地下室に、
地元の建築会社や大工さんから、

「永井さん、家族でここにたてこもって、戦いでも
始めるつもりですか!?」
とからかわれたそうです。

結果的にこれが吉と出たのは、20数年後のこと。
1995年1月の阪神淡路大震災の震度7の激震。
ボクの実家の周りの住宅は、ほぼ全倒壊しました。
が、うちの家だけはしっかりと残りました。
水も電気もないので、両親は3か月近く
避難生活を余儀なくされましたが、
一時期、ここが近所の人たちの集会所。
ある意味「シェルター」の役割を果たしました。


2度目の大きな台風は、ボクが社会人になってからです。
おそらく2001年の秋のこと。
休暇をとって、スキューバー・ダイビングで沖縄本島に出かけたとき、
台風の上陸で島から出れなくなりました。
行く前から「台風の進路でひょっとしたら?」という状況でしたが、
せっかくとった「有休」に「旅行のキャンセル料」を払いたくない
というセコい理由から、強行。
1日は潜れたのですが、海が次第に時化、
飛行機が軒並み欠航となりました。
台風の目が那覇市内を通過した珍しい進路でした。
結局ホテルから一歩も外に出れず、
「強風で自転車が飛んで行く」様子をホテルの窓から
見ていたことを思い出します。

スーパーやコンビニの食べ物もあっという間になくなり、
部屋でカップラーメンとインスタントコーヒーで
過ごしたことを覚えています。

この経験から、「やばそう」と思ったら、
キャンセル料を払ってでも
自分の身を守る
、ことを優先するようになりました。


③そして3度目の「台風直撃」は神奈川県の川崎市に住んでいた時です。
2019年の台風19号。
ちょうど天皇が生前退位されたあと、全国的に大きな被害がでた台風です。

この時は、ボクの住まいのすぐ近くの多摩川の堤防が戦後2度目の
決壊、川が氾濫して武蔵小杉のタワーマンションに、
汚水が流れ込んだ、あの時です。

https://www.ajg.or.jp/disaster/files/201910_Typhoon19002.pdf


この時はテレビやラジオではなく、事実(ファクト)押さえようと
いうことで、住んでいたすぐ近くのデータ

①羽田空港の風速計
②多摩川の観測地点の水位グラフ
③気象庁HPでの台風情報

にアプローチして
数字がどのように変化していくかを見ていました。

※ネットで適切なキーワードで検索すれば、
ご自分のお住まいの近くの数字が把握できると思います。

この時は強風が吹くたびに家がガタガタと揺れ、
窓ガラスが割れないかという不安でいっぱいでした。

結局この時に数字で把握したのが、風速がMAX45.5m。
多摩川が氾濫。僕は3階に住んでいたので、無事でしたが、
お気の毒なことに1階に住んでる方の床下が浸水しました。

「武蔵小杉」という人気のエリアも、
以前は「沼部」といって名前の通り、低湿地でした。


そして糸島に移住して、すぐに大きな台風が来ました。
こちらは、近所のお店やお住まいを見てると、
危機管理意識が都内とは異なります。

店先に土嚢を積んだり、玄関に出している植木鉢を入れたり、
ベランダの洗濯竿を室内にしまったり、と「台風に対する備え」が
そもそも都心の人たちと大きく異なるのです。

さて、月末なので、これから
小倉の永井家のお墓参りに早い時間に行って、
夕方までに戻ってくることにします。

ぜひ万全の備えを。どうぞご無事に!

 書くかどうか迷いましたが、九星気学的には、
30(金)が電気系統やシステムへの影響、
31(土)が交通機関への影響が出やすい、という示唆です。

 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?