価値観の多様化
道徳批判の記事で価値観が多様化していることについて書きました。今日は、その点に関して書いていきます。
先のノートにも書いた通り、現代の我々の価値観は多様化していっています。そして、色々なことを受け入れていきましょうという方向性で動いています。みんなちがってみんないいということですね。
そのような中で道徳を教えることは本当にできるのかというのが批判の趣旨です。
私は、価値観が多様化している中であれば、それに見合った道徳観が存在するのではないかと考えています。
そもそも、上で書いた色々なことを受け入れていきましょうということも一つの道徳観です。ただし、色々なことを受け入れるといってもどこかに限界が存在するのではないでしょうか。
つまり、「それは、さすがに認められないでしょ。」というラインがどこかで引かれているのではないかということです。見方を変えれば、価値観の多様化は「それは認められない」のラインがどんどんと遠ざかっているといえそうです。
そして、それを支えていたのは「合理性」ではないでしょうか。「あれ、よくよく考えたらこのルールや慣習はおかしくね?」と合理的に考えられた結果が様々な運動になって色々なことが認めてこられたのではないかと思います。
現代は、この合理性を持って、価値観の拡大といった方向性にかなりの程度、進んだのではないでしょうか。しかし、拡大を突き詰めてどのような価値観でも認めるべきだとなってしまうと、困ったことが起きるのも事実です。どう考えても殺人や窃盗を認めることはできません。(ここでの殺人や窃盗は一般的なものを意味します。)
また、生命倫理の問題も絡んできます。例えば、遺伝子を操作して生まれてくる子どもの形質や資質を決定して良いのか。といった問題です。(某ロボットアニメの中にこんな問題が出てきてましたね。)
そのようなことがあって、価値観の多様化の中でこそ、何が正しく、何が間違っているのかを考えることができる力というのはとても大切なものになってきているのではないでしょうか。今回はいわゆる理性的な思考を中心に進めてきましたが、ここには直感的な判断も含んでよいと思います。
現在のところは自分自身で判断をするしかないという状況です。であれば、それをできる力を道徳科の中で養っていきたいですね。