大切なのは道徳の中身~社会全体で教育を~

前回、道徳の主な批判ということで四つの主だった批判を挙げてみました。今日は、その四つの批判点の批判点を書いてみたいと思います。例の如くガバガバな回答であることは悪しからず。

まず、回答の前提として、子どもの教育は学校だけでなく、社会全体で行うべきである。ということを提示しておきたいと思います。そのため、教育の全ての責任を学校の先生が負わなければならないということにはなりません。(もちろん、するべきことをしているということは当たり前ですが。)ちなみに、教育基本法には、学校教育だけでなく、家庭教育、社会教育、幼児教育等、学校教育以外の部分の教育についても定められています。つまり、教育の場は学校だけではないということです。また、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するもの」と定められてもいます。親はそのような点で視点を大きく持っていなければなりません。

①国が望ましい価値観を決めて良いのか

「国のために命を賭して死ぬべきである。」といったような極端なナショナリズムに関してはその通りだと思います。しかし、我々は明示しているにせよ、していないにせよ、何らかの価値観を正しいと思って生きているわけです。ですから、子どもの躾と考えた際には、正しいことを教えますよね。(例えば、履物はそろえる。他の人の家に上がるときにはお邪魔しますと言う。等々)もっと言えば、国は教育の目的として、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成」を挙げています。つまり、平和で民主的な考えを持った人の方が良いとしているわけです。これも、一つの望ましい価値観といえます。そのように考えると望ましい価値観を提示すること自体は問題ではなく提示されたその中身が問題になるべきであると言えそうです。

そのような、中身を見たときに、大人としては「これはおかしいんじゃないの?」「時代錯誤では?」と言えるようになっていきたいなと思いますし、「なんかおかしい」と言えるような子どもを育てていきたいですね。少なくとも、提示されたものを無批判に受け入れ、唯一絶対の正解として捉えるような教育は道徳教育の対極にあるものと言えます。

長くなってしまったので今日はここまで。

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