コトバを訳す、ということ 2
「今の”ハイ”は、”ハイ”だと思ってない。”ハイ”の響きじゃない。」
声の師匠は、よくこういうことを言う。
心や五感の疼きが言葉となり、それが発話されて声という響きになるならば、心の伴わない言葉の発話はただの音でしかない。響かない。揺れない。
それでももちろん、生活は成り立つ。我々は、あやふやな気持ちのままでふんわりと言葉を使う。あやふやを悟られたくないが故に、むしろ輪郭がパリッとした言葉を使ったりもする。
「定訳」について、最近よく考える。
固有名詞には大概定訳があるし、それらは敬意を払いつつ使う。王家や皇室の肩書きなんて数百年も数千年も同じ言葉が使われているわけだから、それらは揺らぎはしないだろう。
でも、動詞についてはどうだろう。動詞にも、定訳と呼ばれているものが一定数あり、それをそのまま使う方が、精神的にも脳みそ的にも、絶対に楽だ。目に見えない「思いやり」などの言葉もそうだろう。
だけど、その言葉で、その訳語で、本当に良いのか。その響きは、本当に心の揺れを反映しているのか。楽な方に流されているだけではないのか。
単語ひとつのことで、誰も一々気づきはしない。悩むくらいなら生活の知恵の一つや二つ、追加で覚えた方がいい。そんな風に放り投げたくなる日も多い。
それでも、声の師匠のように、ただの「ハイ」でもきちんと気づいてくれる人もいる。一人いるなら、多分、もっといる。
それならばもう少し、足掻いてみるのも良いのではないか、と思う。
五感をきちんと使った言葉には、声には、色がつき、音が鳴る。おなじ情景を他者と追体験をすることができる。
毎週土曜日のレッスン日は、背中を押して貰う日だ。
言葉は言霊!あなたのサポートのおかげで、明日もコトバを紡いでいけます!明日も良い日に。どうぞよしなに。