259/366 【ショートショート】 月の雫
「完璧な満月から滴り落ちる初めのひとしずくを両の手の平で受け止められたら、願い事が叶うんだよ」
幼い私を膝に抱いて、おじいちゃんはよくこう言っていた。
遠くに住んでいるおじいちゃんに会うことは稀で、それが満月に重なることは更に稀だった。
だから記憶に残っているのは、暑い夏の夜、私を膝に抱いて縁側に座るおじいちゃんが、夜空に浮かぶ半月やら三日月やらを見ながらお話ししてくれた時のことだけだ。
見上げるおじいちゃんの顎の裏には、いつも剃り残したおひげがちょっとだけ残っていた。白いちょびちょびしたお髭は、触るとジョリジョリしていて、その感触が私は妙に好きだった。
手を伸ばしてジョリジョリを撫でるとおじいちゃんは決まってくすぐったそうに笑い出す。
おじいちゃんが笑うのが面白くて、私は更にジョリジョリを撫ぜる。伸ばした手のの先には、満月ではないお月様がいつも輝いていた。
***
でも、どうしていつもお月様があったのだろう。曇りの夜だってあったろうに。
その日、わたしは今朝から続いた一連の出来事から半ば意識的に目を逸らし、その代わり他愛のないあれやこれやを思い出すようにしていた。
お爺ちゃんのおヒゲとお月様はセットで覚えている。そのたびに月のひとしずくのお話をしてくれたものだから、そこまでがワンセットで記憶のずっと奥の方に残されていた。
おじいちゃん、結局満月の最初のひとしずく、両の手のひらで受け止められたんだろうか。
ってか、最初のひとしずくって何やねん。そこまで教えてくれたら良かったのに。
どうしようもない八つ当たりめいたことをブツブツと考えているうちに、ふと気付いた。
ああそうか。私がお髭で遊んでいたから、教えそびれたのか。
「次の満月っていつだっけ...」
思わず声が出た。その声に自分が一番びっくりした。
スマホを出して調べてみると、次の満月は10月2日の朝6:06。明け方の白い満月だ。夜ではないことに少しがっかりしながら、わたしはスマホを切り、窓の外に目を向けた。ミルキーブルーな空に、輪郭のはっきりしない雲が所々に浮いていた。
***
何を信じたわけじゃない。でも...
10月2日の早朝に、わたしはベランダにいた。目覚めたての空気が肌に冷たい。
スマホの画面を秒針まで表示するようにセットして、私はその時間かっちりに両の手の平を添わせ、世界で一番尊いお水を掬うように、月に向かってそのまま掲げた。
大切に大切に扱わなければ儚くなってしまう何かを守るように。
そして気付いた。
そうか。私はこの手のひらで、月のひとしずくを受け取ると同時に、月に向かって私の大切なものを捧げているんだ。
おじいちゃん、ありがとう。たくさんたくさんありがとう。お葬式も何もかも行けなくてごめん。最後のご挨拶も出来なかったから、わたしはまだおじいちゃんがこの世にいないことがどうしても受け入れられない。だっておじいちゃんは100歳まで生きるって思っていたんだもの。
お棺に入った死に顔も見ていないのに。まだお墓にすらも行けてないのに。
その日掬い上げた満月のひとしずくを、わたしはおじいちゃんにそのまま捧げた。
はいどうぞ。甘いかな。キラキラかな。頭上に掲げた手のひらの中身は、わたしには見えない。
でも、お髭をジョリジョリして遊んだ時のおじいちゃんの笑い声は聞こえた気がしたから、きっと喜んでくれたのだと思う。
淡々と満ちた月は、手を掲げた瞬間から欠けていく。目には見えないくらい、少しずつ、ゆっくりと。
会いたい時もあれば、会えない時もある。
忘れてる時もあるだろう。
でも、月はいつもそこにいる。
だから、わたしは大丈夫。
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