110/365 【悼みの場の意味】 20200419 今週のKPT
祖母が他界した。
眠るように逝った(らしい)
今にも起きてきそうな顔だった(らしい)
髪も切って、お出かけできそうな姿でお棺に入った(らしい)
「東京から愛媛に行くわけにはいかない」
母の決意は揺るがなかった。それなら私も足並みを揃えなければ。でも母の家へは?こういう時の為に、自分の罹患率を下げて来たのかも知れない。
グーグル先生によれば、都内の反対側に住む母宅まではハーフマラソン程度の距離。お金払って走れるなら、ただ歩くこともできるはず。
とはいえ途中で給水できるわけでもないし、道中のカフェで一休みもできない。お手洗い休憩もしたくない。
よって、必要最低限のものだけをリュックにいれて、早足歩きで西へ向かった。
今まで歩こうなんて思ったことのない住宅街の道は、人通りが少ないでもなく、車の量も減ってはいない。コロナ?なにそれ?って感じ。強いていうなら、ランナーの数が多い気がする。
むしろごくごく普通の住宅街を、登山リュックを背に、マスクをして歩いている自分のほうが浮いている。
3時間半ほどで母宅に着く。
「着いたよ」
「頑張ったね」
まずは淡々とご飯を食べる。生者は何しろ食べなければ。こんな状況なら、なおさら。
愛媛では、お通夜。参拝者は、松山の叔母夫婦と2月から愛媛に滞在したままだった大阪の叔母のみ。連絡する人も限定し、ご時世を鑑みてお焼香は遠慮して頂いた。
最後に送った絵葉書は、亡くなった日の朝に届いたらしい。叔母が読み上げてくれたそうだ。「耳は最後まで聞こえるらしいからね」
翌朝。お経の時間に合わせて、愛媛の方角を向いてお数珠を握った。スマホのコンパスが役に立った。
静かな時間。目を閉じる。あれこれ思う。
旅が好きで、食べるのが好き。おしゃべりが好き。頭の回転の早い人だった。塩を商っていたお家だった為、戦中戦後でも、塩にも砂糖にも不自由しなかったという。
今でいう起業家の曽祖母の末っ子で唯一の女の子だったので、とっても甘やかされて育った。惜しみなく与えられて育ち、惜しみなく与える人になった。
女学校の受験日当日に大熱を出して失敗したが、浪人して翌年入学したという。戦前の女子で浪人が許されたのだ。それくらい教育には熱心な家系だった。
母と2人の叔母の大学進学についても、「国公立しか学費は出せない」と言った祖父に対して、「田んぼの1枚も売ればいい」と啖呵を切り、きっちりと3人の娘を大学へ進学させた。
商売の才覚は公務員の祖父よりも高かったらしく、先祖代々の土地を一人で活用して収入を得た挙句、祖父が祖母に借金したこともあったらしい。
アゲタガリな性格で、冷蔵庫はいつもパンパン。自分は奈良漬で酔っ払うくせに、梅酒を毎年漬けていた。「誰かが来た時に、出せるものがないのが嫌だったのよ」
お葬式は、祖母がよくよくお世話をしていたまた従姉妹らが参列した。総勢7名だ。棺を運ぶ人ができて良かった、と言っていた。
早くに亡くなった祖父は、区役所の福祉課に勤めていた為、参拝者が大勢いらした。その行列が近所の道のずっと向こうまで続いたそうだ。
とても対照的だけれど、それも祖母らしい。
最後に何か伝えることがあったら紙に書いて棺に入れてあげるよ、と言われたので、2行くらい書いて叔母のスマホに送った。代筆してくれた。
従姉妹4人分の短いメッセージを見て、お寺さんが電報として読み上げてくれたそうだ。読み上げられるなど誰も想定していなかったが、「お悔やみ申し上げます」みたいな定型文が一つもなく、奇しくもみんな、「またね」で結んでいたという。
「お坊さんが泣いていたよ」
全て、過去形。
お葬式の様子は何も記録に残っていない。記憶にもない。言葉のかけらを寄せ集めて、自分の中で色んなシーンを作り上げる。どれもみんな、現実には思えない。少なくとも、今はまだ。
お葬式、という悼みの場の効能は偉大だ。改めて思った。
夕方には、あんなにざんざんぶりだった雨もやんだ。
「歩いて帰れるようになったね」
「雨の後だから、電車も空いてるかも」
「なら電車の方がいいね。密室じゃないし」
案の定、黄色い電車は空いていた。おばあちゃま、ありがとう。黄色い電車で行ける所まで行って、そこから歩いた。
昨日はあんなに大雨だったのに、今日は快晴。普通の生活に戻りなさいって言われている。
秋には皆で集まれるだろうか。分からない。でも、少なくともまた会いたい人に会えるように、元気でいよう。
だから、元気でいてね。
今週のKPTは、祖母へのKPT。She was a Kind and Playful Traveller. 温かくて、遊び心を最後まで忘れない旅人だった。
お葬式の最後、7人で「知床旅情」を歌ってお別れしたらしい。清しい旅立ち。
明日も良い日に。