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【ゲーム感想】知人を殺せるか【シャドウ・オブ・ウォー】



『シャドウ・オブ・ウォー』クリアした。

結論から言うと楽しかった。操作しやすいし。簡単操作で豪快アクションというのは王道ではあるけれど、そこがまた軍隊編成や支持者管理などの複雑なゲームシステムと噛み合ってて良い。

というより、操作が難しいゲームは、操作が難しいことそのものが売りだったりするので、個人的にはそういうゲームはあまり楽しめない。不器用だから。グラフィックや音楽やストーリーに目を輝かせながら余裕のある操作でのんびりと進めるのが楽しい。

この『シャドウ・オブ・ウォー』は、『シャドウ・オブ・モルドール』の続編である。
簡単に言うと映画『ロード・オブ・ザ・リング』をゲーム化したものだが、時系列的には2作とも映画『ホビットの冒険』との間に位置するオリジナルストーリー(映画の補填的内容も含む)になっている。
映画に出ていた登場人物はほとんど出てこないが、グラフィックといいムービーといい映画の表現をかなり踏襲しているので、映画ファンは絶対楽しめるはずだ。

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それにしても暗い話だった。光の無い洞窟を疲れた足でヨタヨタ歩くような絶望感が一貫して流れていた。の割にグラフィックは美しい。それがまた全体的な残酷さを助長する。なんで洋ゲーってこんなのが多いんだろう。
これはアクションゲームやRPGとかのあるあるだと思うんだけど、暗いストーリーほどアクションは爽快だったりするし、腹立つほど馬鹿で声のデカいキャラが主要メンバーにいたりする。多分そうでもしないとプレイヤーが疲弊するし、その暗さが報われないのだ。このゲームもそうだった。

でもよく考えたら、個人的には『ホビットの冒険』もそんなに明るい話とは思えなかった。
結局サウロンはバリバリ活動してるし、モルドールも悪い奴らでバリバリだし、指輪はビルボが持ってる。いや仕方ないんだけど。
そもそも原作者トールキンの世界観において善と悪が可視化できるほどハッキリしてるのも原因だと思ってる。いや仕方ないんだけど。

だから登場人物は基本的に踠いてる。夢ややりたいことに夢中になれる環境なんか殆どなくて、悪いやつらがたくさんいる世界の限られた選択肢の中で、家族のためとか、名誉のためとか、より良い世の中のためとかで、必死に踠いていく。

ネタバレしない程度にあらすじを書くと、ゲームの主人公タリオンは黒門のレンジャーの一員としてモルドールを見張っていたが、「サウロンの黒の手」によって妻と息子を殺されてしまい、自身も殺されてしまう。
が、あるエルフの亡霊が憑依したことで蘇り、亡霊の力と共にサウロンを倒すべくオークの軍に立ち向かう…みたいな話。

映画を観たことあるならもうお察しかもしれないが、サウロンは『ロード・オブ・ザ・リング』の最終章で倒れるので、以前の話であるこのゲームではサウロンは倒れない。つまりタリオンの目的には届かず、むしろ遠く離れたところに物語は帰着する。そりゃ暗い。しかし人によってはハッピーエンドと捉えるかもしれない。これはもう是非ゲームをやるかYouTubeでストーリーを観てみてほしい。

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それにしても面白かったのが、オークを支配するというゲームシステムだ。
無双シリーズみたいに孤軍奮闘スタイルかと思いきや、オーク達やそのリーダーを服従させ、自分の軍隊として吸収し、サウロンの軍に対抗していく流れとなっている。

ゲームを始める前は、オークを支配するということにすごく抵抗があった。
映画においてオークはとにかく嫌な奴らだ。汚いし臭いし喧嘩ばっかりで、ネガティブな要素しかない。
だから自分の支配下に置くというよりバッサバッサと斬り伏せるほうを楽しめると思ってた。

でもやってみると全然違った。逆。オークを殺すことにむしろ抵抗が出た。
理由は『メタルギアソリッド5』と同じで、敵キャラがしつこいほど個性的なのだ。
見た目はもちろん、名前、あだ名、使う武器や特性、動き方、性格、他のオーク達との関係…そんな個性が敵キャラ一人一人に与えられている。しかも同じオークでも主人公と関われば関わるほどセリフが変わったりする。ネメシスシステムというらしい。
もうほとんど現実の人間だ。
そういった人間味が、まるで知り合いを殺すかのような感覚をプレイヤーに植え付ける。これは大袈裟じゃなくて結構やばい。「たかがゲームごときで笑」と思う方もいるだろうが、かの『ハリー・ポッター』シリーズの作者J・K・ローリングは、シリウス・ブラックが死ぬ描写を書いた際、立てなくなるほど泣き崩れたという逸話がある。そのくらい人は物語に没入するのだ。或いは、物語の人物も、現実の身近な人間も、「他人」という一つの枠組みとして捉えることもできるのかもしれない。だから、死ぬと悲しい。

今回は見た目がオークだからまだよかったものの、『メタルギアソリッド5』みたいにまんま人間の姿をしてたらもうまじで全然手が出せなかったと思う。あのゲームも敵を自軍に引き込んでいくシステムだから実に巧妙だ。実際に僕はあのゲームでは1人も殺せなかった。

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そして、その個性を与えること自体がまさにトールキン的だと思った。

昔、『中つ国wiki』というサイトを好んで見ていたことがある。
読んでいくと誰もが驚愕すると思う。トールキンは物語を作るとかそんなレベルじゃなくて、恐らく世界そのものを作っていて、その設定のぬかりなさがエグい。
例えば映画の主人公のフロド・バギンズの家系ひとつみても、とんでもない人数が掘り起こされるが、それぞれの名前や性格や生涯までも細かく記述されている。民俗資料と役所資料とその辺の日記を全部抜粋したんじゃないかってくらいの規模だ。そして彼らは作中に一切出てこない。過去に存在していたことが知らされているだけだ。まるで僕らが生きてるこの世界そのものではないか。
逆に言えば、作中に登場する全ての人物に人生があるということだ。当たり前に思えるかもしれないが、これはあくまで物語の中の話である。

映画で考えるとわかりやすい。
戦争のシーンで、人間やエルフやオーク達がバッサバッサと斬り伏せられたり射抜かれたりする描写が多々ある。
そんな彼ら一人一人に、出身地や人種や性格や家族や先祖が存在するようなものなのだ(実際にトールキンがどこまでその情報を記しているかはわからない)。

もし目の前の敵に婚約者がいると知ったら。大切な家族がいると知ったら。自分と同じような趣味を持っていると知ったら。我々は剣を振れるだろうか。
『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』で、アラゴルンに声をかけられた少年兵が、「ハマの息子、ハレス」と名乗るシーンがある。実に示唆的だ。物語的にはいてもいなくても何の影響もないであろう一介の少年兵が、たった一言で、我々の同情と戦争への臨場感を物にしている。

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そういったそれぞれの個性や環境を、無限に湧き出るオーク達に振っているのだから、このゲームもブルーレイディスク1枚でよく出来たなと思う。

僕は「映画とゲームの境界」について常々考えているのだけれど、もしかすると時代はとっくにそんな議論は追い越していて、「現実とゲームの境界」を考える段階に突入しているのかもしれない。
その辺は後日また改めて。

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