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【魔拳、狂ひて】彷徨う女

※注意※
 この小説には、暴力シーンやグロテスクな表現、ホラー展開等が含まれております。これらが苦手な方はお気を付け下さい。

1 
 杉本歩美は、塾から家へと続く通り道を、びくびくと歩いていた。
 時刻は既に午後八時を回っており、辺りは薄暗い闇に包まれていた。
 闇夜を照らすのは、切れ掛かっている街灯と、民家のカーテンの隙間から零れる微かな灯りのみ。
 心許ないそれらの光が、今の歩美にとっては、僅かな希望の灯火であった。

 ──歩美は、都内のとある小学校に通う女子生徒であった。
 クラスメートとの仲は良好で、教師からの評判も決して悪いものではない。学業の成績も、一般生徒と大差ない。
 ごく普通。そこらの小学生と変わらない、ごく普通の女の子であった。
 
 ──そんな彼女に、両親が学習塾に通うように勧めてきたのは、半年前のことであった。

 当初、歩美は塾に入ることに対して難色を示していた。
 入りたくなかった理由は二つ。テレビや漫画のイメージで出来上がった『塾の先生は厳しそうだから怖い』という先入観があったから。そして、自分の自由な時間が少し減ってしまうからであった。

 しかし後日、その塾に、学校で仲の良いクラスメートが何人も所属していることを知った。
 その友達に聞いてみると、『塾の先生はとても優しい人で、授業もわかりやすくて面白い』とのことであった。
 それを聞いた歩美は、『友達もいるから心細くないし、入っても良いか』と、両親の勧めを承諾したのである。
 
 塾に入ったことで、実際に歩美が感じたのは、『友達の言ったとおりだった』という安堵感であった。
 先生は気さくな人で、授業中、真面目な解説の合間にジョークを交えて、みんなのやる気を引き出してくれた。授業もわかりやすく、今まで分からなかった問題が、簡単に解けるようになった。以前まで退屈に感じていた学校の授業も、ちょっとだけ楽しめるようになった。
 最初は憂鬱に感じてはいたが、結果的に、塾に入って良かったと思えるようになった。

 しかし──一つだけ。
 一つだけ、塾に通うようになったことで、歩美には悩みが出来てしまった。

 それは──塾から家に帰るために、現在歩美が歩いているこの道を、『夜に』通らなければならなくなった、というものである。

 数年前、この通り道で、殺人事件が起こった。
 被害者は若い女性であった。電灯のそばに、血塗れで倒れ込んでいたという。
 遺体は両目が抉り出されており、刃物で切り刻まれたと思われる裂傷が全身至る所に見られた。そのため現場は、女性の血液や肉片が散乱し、凄惨な状態だったという。
 幸い、事件現場からは、犯人が残したものと思われる証拠品が発見された他、現場から不審な人物が逃げ去ったという目撃情報もあったため、犯人はすぐに逮捕された。

 ──だが、話はそれだけでは終わらなかった。
 数ヶ月後、事件現場にて、ある女性が目撃された。
 その女性は、件の殺人事件で被害に遭った女性に酷似していたのだという。
 この目撃情報を発端に、今日までの間に、何人もの人が、その女性の幽霊を目撃している。

 果たしてその女性は、あの被害者の霊なのか。それとも、全く別の女性なのか。真相は、今も明らかになってはいない。
 ただ一つ言えるのは、その女性は、今も目撃され続けているということだけである。

 ──その噂を聞くたび、歩美は震え上がった。
 実を言うと、歩美は人一倍怖がりな性分であった。
 ホラー映画は勿論のこと、サスペンスドラマの殺害シーンなどを見るだけでも、震え上がってしまい、目を背けてしまう程である。
 だが、映画やドラマは、あくまでフィクションである。耐えようと思えば、ある程度は我慢できる。しかし、この通りで起こった事件は、過去の出来事とはいえ、現実に起こった出来事なのだ。

 もしも、噂が本当ならば?
 殺された女性が、お化けになって出てきたとしたら?
 そのような不安が、塾帰りにこの通りを通るたびに、歩美の心の中に何度もよぎるのである。

 そして──今日も歩美は怯えながら、速足で自宅を目指していた。
「何度通っても怖いなぁ……。他の通り道があればいいのに……」
 怖れる心が独り言となり、歩美の口から弱々しく漏れ出す。
 誰かがいるような気配は、全く感じない。民家の灯りは、徐々に少なくなっていく。
 その不気味な雰囲気が、歩美の心の中の不安を更に駆り立てていく。

 しかし、あと十五分程歩けば、我が家に辿り着くのだ。
 そう思い、歩美は恐怖心を押し殺し、歩くことに集中した。
(大丈夫。きっと大丈夫……)
 自分の心を勇気付けながら、彼女は夜道をひたすら歩いた。
(今まで何度も夜に歩いてきたけど、私の時は一度も出た事は無かったんだ。だからきっと今日も大丈夫。お化けなんて出てこない……!)

 ──その時。
「……!」
 歩美は、五十メートル程先にある、チカチカと明かりが明滅する電灯の下に、人影を見た。
 顔は俯いており、表情は見えないが、どうやら女性のようである。
 背が高く、若干やせ気味の体型であった

「……?」
 その人影を見た瞬間、歩美は、何か言い知れぬ不安を覚えた。
 何故不安の感情を抱いたのか、彼女自身も最初は分からなかった。
 しかし、その女性をじっと見つめていると、次第に胸騒ぎがしてくるのだ。

 やがて歩美は、その胸騒ぎの原因に気付いた。その女性の容姿から、強烈な違和感が発せられていたためである。
 その女性の髪は、とても長かった。長いと言っても、一般的な女性のロングヘアーの長さではない。
 伸ばした髪は、地に達する程の長さであった。前髪、横髪、後ろ髪──そのどれもが、異常に長い。
 それだけではない。彼女の足を見てみると、靴も靴下も履いていない。裸足であった。
 この通りは、アスファルトで舗装されているとはいえ、転がっている小石や動物の糞なども決して少なくはない。
 そもそも、履物を何もせずに外を歩くなど、よほど慌てているか、非常事態でなければ有り得ない行為だ。

 更にその女性は、両手に何か赤黒いものをはめていた。
 最初は、赤い手袋をしているのだと思った。しかし、今日の気温はかなり暖かく、手袋などする必要はないはずであった。
(じゃあ、あの女の人は、手に何をはめているんだろ……?)
 不審に思った歩美は、目をこらして、その女性の両手を数秒ほど見つめてみた。
(……? あれって……)
 歩美は、更に目を凝らす。その女性が、手に何をはめているのか分かるまで、じっと、じっと見つめ──

「……え!?」
 ──その時、歩美の心臓が跳ね上がった。
 歩美の心の中に溜まりに溜まった不安は、一瞬にして恐怖に変じた。女性の手を染めている、赤いものの正体──それを、ようやく理解したのである。

 両手のそれは、断じて手袋などではない。
 ──血液であった。
 赤黒く、ねっとりとした血液が、彼女自身の両手を染め上げているのだ。
 手を覆い尽くす血液は、指先からぼたぼたと絶え間なく零れ落ちており、女の周囲も、血溜まりで赤黒く染まっていた。

「え……? なっ……なに……あれ……!?」
 恐怖に震える歩美。
 そして彼女は、血に塗れた女が立っている場所が、一体どんな所なのかに気付く。
(そういえばあの電灯って、女の人の死体が見つかった場所じゃなかったっけ……!?)

 歩美がその考えに至ったまさにその時──

 ……ひたり……。

 ──女性がこちらに向かって、足を一歩、踏み出してきた。

 ……ひたり……ひたり……ひたり……。

 湿った足音を立てながら、女性は歩美のもとを目指して歩いて来る。
「ひ……あ……っ!」
 ゆっくりと迫り来る女に、歩美は引き攣った声を上げる。歩美がその場に立ちすくんでいる間にも、女はゆっくりと歩を進めながら、俯いていた顔を、徐々に正面へと上げてゆく。
 そして、女性の顔が正面へと上がり切った時、髪の隙間から、女性の両目が露わになった。

「──!!」
 その顔を見た瞬間、歩美は戦慄した。
 その女性には──両目がなかった。
 人間にあるはずの、二つの目。眼窩に収まっているはずの眼球が、なかった。ぽっかりと空いていた。その代わりに、おびただしいほどの血が、どろどろと両の眼窩から溢れ出ていたのである。
 当然、目は見えていないはずだ。はずなのだが──女性は歩美に顔を向けると、まるでそこに歩美がいるのが見えているかのように、にたり、と嗤ったのである。

「──っっ!!」
 悲鳴を上げるよりも早く、歩美は背後を振り返り、元来た道を全力疾走し始めた。
(逃げなきゃ……逃げなきゃ……!逃げなきゃ!!)
 突き上げてくる恐怖心に身を任せ、勉強で疲れている体を鞭打ち、全力で駆け抜ける。
 あれに捕まったら、絶対に殺される。その恐怖と確信が、彼女に普段以上の身体能力を引き出させていた。

 一〇〇mほど走っただろうか。五十m先の真新しい電灯の下に、再び人影が現れた。
 先ほどの女の化け物ではない。
 どうやら青年のようだ。見たところ、背は男性にしてはそれほど高くない。
 その姿を見て、歩美の心に、希望の光が灯った。
(よかった……! あの人に助けてもらおう……!)
 普通の大人なら、『お化けが出た』などと話しても、信じてはくれないだろう。しかし、あの女性のこの世のものとは思えない姿を見れば、きっと誰もが信じてくれるはずだ。

 助けてもらおう。誰かに助けを呼んでもらおう。助けを呼べなかったら、一緒に逃げよう。一人で逃げるより、二人で逃げたほうが、恐怖心も和らぐはずだ。
 ──そんなことを考えながら、歩美はその人影に助けを求めようとした。

 ──だが。
「……たっ……助け……!?」
 その瞬間、歩美の声と、必死に走っている足が、ピタリと止まってしまった。
 その青年から、先程の女が発していたものとは似て非なる、禍々しい気配が放たれていたからである。

 平穏でごく普通な生活を送ってきた歩美には、全く分からなかった。──この青年が発していたものの正体が、俗に『殺気』と呼ばれるものであることを。

 ──歩美が足を止めた位置は、青年の姿や特徴がはっきりと分かる距離であった。
 青年の顔は、目つきが異様に悪く、口はむっつりと閉ざされている。所謂悪人面であった。醜男というほど酷い顔ではないが、お世辞にも美形とは言い難い顔であった。
 身長は、成人男性の平均と比べると、そこまで高くはない。一六五センチ程であろうか。
 上半身は、シャツの上から黒いジャケットを纏っている。黒いグローブによって指先まで覆われた手が、ジャケットの両袖から突き出ていた。

 ──その時、歩美の脳裏を、先程の女の姿がよぎった。
 あの女の化け物を初めて見た際、歩美はその女が、赤黒い手袋をはめていると勘違いしていた。
 しかし実際には、両手が大量の血によって赤黒く染まっていたのである。
(ひょっとして、あの人もグローブをはめてるんじゃなくて、両手に血がべったりついてるんじゃあ……? なら……なら、あの人も、あの女の人と同じ……!?)

 その考えに至った時、歩美の体は石のように硬直した。同時に、彼女の頭の中に混乱が生じる。
(どっ……どうしよう……!? どうしようどうしようどうしよう!?)
 歩美の脳内がパニックに陥った瞬間、青年が一歩、歩美がいる方向へ足を動かした。
「……!!」
 青年のその行動が、先程の化け物女の動きと重なった。
 自身を狙って、歩き出した、その姿と。
 間違いない。あの青年もきっと、あの女の仲間なのだ。──歩美はそう確信する。
(に、逃げなきゃ……! でも、どこに……!? どうやって……!?)

 歩美は、女がまだこちらに歩み寄って来ているか確認すべく、恐る恐る背後を振り返る。
 すると案の定、そこには女の化け物が、ゆっくりと、しかし確実に歩美に近寄り続けていた。
「あ…………!?い、いや……!!」
 恐怖の呟きを漏らし、歩美は地面にへたり込む。
 きっと自分は、このお化けの二人に殺されるんだ。そんな恐ろしい想像が、歩美の体を急速に凍てつかせていった。

(いやだ……いやだよ……死にたくない……死にたく……ない……!)
 ガチガチと歯を鳴らし、震えながら未練の思いを抱く。
 まだやりたいことがいっぱいあるのに。
 家族や友達と、楽しいことをいっぱいしたいのに。
 そんなささやかな願いすらも、恐怖心によってじわじわと蝕まれていった。

 やがて──歩美の口から、言葉がこぼれた。小さい──けれど、来るはずもない助けを求める、命を掛けた必死な言葉が。
「た……助けて…………誰か……助けてっ……!」

 ──その時であった。
「──ひっ!?」
 歩美の右肩に──何かがポン、と置かれる感覚が走った。暖かさを伴ったその感覚に、恐怖で凍り付いている歩美の心が、ふっと和らぐのを感じた。
「え……?」
 思わず歩美は、右肩の方向に顔を向ける。

 そこにいたのは──
「…………」
 ──先ほどの、悪人面の青年であった。
 青年は、歩美の右肩に左手を置いているが、顔は歩美に向けられてはいない。
 彼が顔を向けている方向は、真正面。こちらにずるずると歩いて来る女に向かって、凄まじい形相で睨み付けていた。

 そして──青年が、初めて口を開いた。

「下がってろ」

「……え?」
 青年の落ち着いた声が、歩美の耳に届く。
 その言葉からは、聞いた者を安心させるような響きと、確固たる強い意志が感じられた。
 青年は立ち上がり、歩美の横を通り過ぎ、女に向かってゆっくりと歩を進める。

「……グ……げ………………ぎぃ………………」
 女は、歩きながら、この世のものとは思えない呻き声を上げる。まるで、聞いた者全てを呪い殺すような凄味があった。
 ──その時、女に異変が起こった。歩く速度が、徐々に上がっていたのである。
 歩く姿勢も、一歩進むごとに、ゆっくりと前傾気味になっていく。一歩、二歩、三歩──そうやって速度を上げながら歩いていくごとに、更に体は傾いていく。
 その時──不意に、女が四つ足の姿勢となった。獣の如き姿勢になった女は、両の眼窩から血を溢れさせ、ぼたぼたと零し、地面を赤黒く染める。
 そうしながら、地面を激しくビタビタと鳴らし、凄まじい速度で歩美と青年目掛けて突進し始めた。

「ひっ、ひぃぃぃぃっ……!」
 その恐ろしい姿を見た歩美は、若干和らいだはずの恐怖の念が、再び膨れ上がるのを感じた。
「そこを動くな。下手に動いたら、あいつに殺されるぞ」
 そんな歩美に、再び恐怖にのまれようとしている歩美に対して忠告する。
 そうしながら青年は、女に歩み寄りつつ、軽く肩を回した。両目は依然として、女を睨み付けたままである。

 女は、アスファルトを激しく打ち鳴らしながら、その突進の標的を、青年に絞り込む。
 歩美は、青年が一体どうするつもりなのか、全く見当がつかなかった。
 青年と女が激突するまで、もう数秒ほどしか時間はない。激突まで、残り五秒、四秒、三秒、二秒──

 ──その時。
「……!?」
 青年がとった行動を目の当りにし──歩美の両目が、驚愕により大きく見開かれた。
 ──それは、残り一秒となった瞬間のことであった。

 掛け声と共に、青年が──
「ぅぉ──りゃああぁッ!」

 ──女の鼻っ柱を目掛け、大砲の如き前蹴りをぶち込んだのである。

「がッ!?」
 女の顔は、蹴りの衝撃に耐えきれず、天を仰ぐかのように、上へ上へと上がっていく。
 そして、遂に──
「ッ!!」
 ──女の首は、ごきり、という鈍い音を立て、真後ろの方向へと折れ曲がってしまった。

「──ッアッァァアァガァァアアアアアアアアアアア!!」
 首の骨が折れ、頭部が奇妙な状態でぶら下がったまま、女は苦悶の叫びを上げる。
 通常の人間ならば、間違いなく絶命している程の重傷である。しかし、女は苦痛に喘ぎ、よろめいてはいるものの、事切れる様子は全くなかった。

「キャアアアアアアアアアッ!!」
 その光景を目にした歩美は、目の端に涙を滲ませながら絶叫した。
「見るな!」
 青年は前を見つめたまま、後方の歩美に向かって叫んだ。
 その声は、確かに歩美の耳の中に入った。その声に従い、瞼を閉じようとも思った。
 しかし──出来なかった。瞼は小刻みに震えるだけで、瞼を閉じる事が出来ない。瞼だけではない。全身が震え上がっており、全く言うことを聞かなかった。
 恐怖心が、歩美の体を氷漬けにしていた。

「アアアアアアアアアアア!! ──。……」
 その時──女の悲鳴がぴたりと止まり、全身が一瞬ビクリと揺れる。
 すると、酷く折れ曲がっていたはずの女の首が瞬時に再生し、頭部がもとの位置へと戻った。
 女は、再びビクリと全身を揺らすと、両腕を青年に向けて掲げる。
「…………」
 それを見た青年は、無言のまま、腰を低く落とし、両拳を構える。

 次の瞬間、女の両腕が、まるで蛇のように伸長した。
 そして、伸びた両腕は風を切りながら、凄まじい勢いで、前方の青年へと襲い掛かった。狙いはただ一つ、青年の首であった。

「……っ!」
 しかし、女の両手は、青年の首を捕えることはなかった。
 首に接触する直前、女の両手首は、青年の両手によってがっちりと掴み取られていたのである。

 そして次の瞬間──
「──っ! くぁっ!!」
 丹田から絞り出される声と共に、青年は掴んでいる両手首を、それぞれの手で握り潰した。
 そして、そのまま両腕を引っ張り、女の体を引き寄せる。
 その次の瞬間──女の水月目掛け、重い膝蹴りを叩き込んだ。
「──っっげ……ぁ……げぇ……!?」
 手首を握り潰され、渾身の膝を食らったことで、苦痛に悶える女。

 そんなことなど知ったことか。そう言わんばかりに、青年は、次なる打撃へと移行する。
「シッ──!」
 青年は口から呼気を漏らしながら、女を目掛けて拳打を放つ。縦拳による鋭い右冲拳ストレートが、先程膝を受けたばかりの女の水月に、深々と突き刺さった。
「……ぎぇ……ぐひ……ぃ……!」
 女が、呼気を漏らす。その呼気は、青年が口から漏らしたそれとは全く異なる。急所を打ち抜かれた激痛に耐えきれず、肺から大量の空気が絞り出た事を示す呼気であった。

 青年は立て続けに、左右の拳を用いた連打で攻め抜く。
 左ストレート。
 右フック。
 左アッパー。
 放った拳打のどれもが、女の体正確に狙い撃った。堪らず女は、後方へと後退った。

 しかし──まだ追撃は終わらなかった。
 青年は、後退った女に向かって素早く踏み込み、一気に間合いを詰める。
「うおおおおおっ!!」
 咆哮と共に、立拳による重いストレートの連打が、女の水月に叩き込まれる。
 二発。
 五発。
 十発。
 十七発──。
 青年の放つ連打は素早く、一体何発撃ちこんでいるのか、傍で見ている歩美にも全く分からない。正しく、機関銃の如き猛攻であった。

 二十発程打ち込んだ頃であろうか。青年は、先程までの激しい連打をピタリと止め、フラフラとよろめいている女の顔面を、右手で鷲掴んだ。
 そしてそのまま、ドリブルをするかのように──
「ッ──! フンッッ!!」
 ──地面に向かって、女の後頭部を力強く投げ付けた。
 グシャリという、何かが潰れる湿った音。それが、人の気配のないその道に響き渡った。

「!! ……ッァ……ガァァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!」
 女は、激しくもがき苦しみながら、断末魔の悲鳴を上げる。
 アスファルトに叩き付けられた頭部は、腐ったスイカの如くグチャグチャになっている。
 しかし、徐々に悲鳴は小さくなっていき、体の動きも緩慢なものへと変わっていく。
「………………が………………げ……………………げ……。……………………」
 ──声が、完全に途切れた。同時に、動きも完全に停止した。
 次の瞬間、女の肉体が、ぐずぐずと崩れていく。燃え尽きて黒くなった残りカスが、風に煽られて飛んでいくように。
 やがて、女の亡骸は、塵状になって消滅した。同時に、辺りに散らばっている女の血液も、完全に消え失せていた。

「…………」
 青年は無言で構えていた。そのまま、女が消滅した場所を見つめて動かない。
 ──が、しばらくして、周囲に何の変化もないことを確認すると、大きく息を吐き出しながら、その構えを解いた。
 そして、ゆっくりと歩美に近付き、彼女の目線に合わせるように、その場に膝をついた。

「……怖かったろ。もう大丈夫だ」
 そうつぶやくと、青年は歩美の頭にポンと手を乗せる。
 その手は、とても温かかった。──化け物でなく、人の温もりであった。
 青年の表情は、相変わらず不愛想で、そしてどこか不機嫌そうなものであったが──先程までの鬼のような形相と比べると、大分柔らかいものに変化していた。
 その時、ようやく歩美は、自分が助かったのだという事を理解した。

「……グスッ……ひっく……ぅぅっ……!」
 歩美は、青年の胸元に抱き付き、小さな声で泣き始める。
 青年は、歩美を安心させるため、優しく抱きしめる。
 歩美が落ち着くまで、青年はしばらく、彼女の背中を右手でさすっていた。

2
 薄暗い通り道を、二つの人影が並んで歩いている。
 人影のうちの一つは、先程化物と死闘を繰り広げた青年である。隣には、先ほどまで嗚咽を漏らしながら泣きじゃくっていた、歩美の姿がある。
 数分前に彼女の嗚咽は収まり、代わりにすんすんと鼻を啜りながら歩いていた。

「あの女は、数年前にこの道で起こった殺人事件の被害者だったんだ」
 青年は仏頂面で歩きながら、淡々と説明をする。
「あの人は、殺された後も無念の気持ちが消えず、成仏出来ずにここに留まり続けていたんだ。それを、今から一週間前くらい前に、彼女の親族が知ってな。何とか彼女を成仏させてやりたいと、ある霊能者に頼ったんだ」

 そう告げた後、青年の仏頂面が、わずかに不機嫌そうなものになる。
「ところが、その霊能者が実は詐欺師でな。いろいろとインチキやって、親族から大金を騙し取ろうと企んで、適当な除霊をやったんだ。それがあの女の逆鱗に触れちまってな。その詐欺師を呪い殺してしまったんだ」
「……」
「それから次の日、彼女を殺した罪で、刑務所に入っていた犯人が、突然死んだんだ。多分、それも彼女の仕業だろうな」
 それを聞いて、歩美は数日前に報道されたニュースを思い出した。
 そのニュースは、刑務所で服役している殺人犯の男が、奇声を発しながら苦しみ始め、死んだというものであった。

「しかし、女の怒りはそれだけじゃ治まらなかった。怒り狂った女の霊を鎮めるために、今度は正真正銘本物の霊能者がやってきたんだが、その人も逆に殺されちまったんだ。それで、これ以上事態が悪化しないように、俺に依頼が入ったって訳だ」
 青年は淡々と話す。
 まるで、自分の日常をそのまま語るかのように。

「お兄さんも、えっと……その霊能者、なの……?」
 啜り泣きながら発した歩美の問いに、頭を掻きながら青年が答える。
「ん……。まぁ、似たようなもんだよ。正確には違うけど……ああいう悪霊は、俺も退治できるしな」
「……あの幽霊は、どうなったの?」
「消えたよ。容赦なく叩きのめしたからな。もう化けて出てくることもない。今頃あの世で、自分のしでかしたことを反省してるんじゃねえかな」
 それを聞いた歩美は、深く息を吐きながら安堵した。今夜寝ているときに、またあの幽霊が現れたらどうしようかと心配していたのだ。

 そうこうしているうちに、二人は歩美の家の前に辿り着いた。彼女の家は、小さいわけでも、大きいわけでもない、誇るべきところなど何一つない普通の民家である。しかし、今の歩美にとって、その普通の自宅は、何よりも恋しいものであった。

「じゃあ、俺はここまでだな」
「あの……助けてくれて、ありがとうございました。」
 最後に、歩美は感謝の言葉を述べながら、深々とお辞儀をする。
 彼が助けてくれなかったら、歩美はまたこうして、家に帰ることも出来なかっただろう。

「気にすんな。それが俺の仕事だ。……それよりも、怖い思いをさせて悪かったな。誰も巻き込まないように、人通りの少ない時間を選んだつもりだったけど……配慮が甘かった。すまねえ」
 青年が謝罪し、丁寧に頭を下げた。歩美を巻き込んでしまったことを、心から申し訳なく思っているようであった。
 人相は悪いが、中身はおそらく善人なのだろう。
 そう考えると、歩美は彼に対して親しみを覚えるとともに、最初に彼を見て逃げようとした事に対して、罪悪感を感じ、己を恥じた。

「今日見た事は、早く忘れたほうが良い。簡単に忘れられるようなもんでもないけど……長く引き摺っちまったら、心の傷にもなりかねないからな」
「は、はい……」

「それと……今日のことや、俺に会ったことは、誰にも話さないでくれ。もしかしたら、また変なものを呼び寄せてしまうことがあるかもしれない」
「……分かりました、誰にも言いません」
 青年の忠告を、歩美は素直に受け取る。
 もとより、歩美は誰にも話すつもりなどなかった。
 もし誰かに話してしまったら、あの時感じた恐怖が、また呼び起こされるかもしれないと思ったからである。

「ああ、頼むよ。それじゃあな」
 手短に挨拶をすると、青年は踵を返して歩き始めた。
 その背中を見て、歩美は一瞬躊躇ったが、やがて意を決したように、歩き続ける青年に声を掛ける。
「あの……待ってください!」
「……ん?」
 歩美の言葉に、青年は不思議そうな顔をして振り返る。
「私、杉本歩美って言います。その……お兄さん、名前は……?」
 歩美がおずおずと尋ねる。
 今日の事を、誰かに話すつもりはなかった。一刻も早く、あの恐ろしい出来事を忘れるつもりであった。
 しかし、この青年だけは。自分を救ってくれたこの青年の名前だけは、どうしても知っておきたかった。

「……」
 その問いを聞き、青年は歩美から僅かに顔をそらした。そして、頭を掻きながら、しばし沈黙した。名を打ち明けて良いものか、考えているようであった。
 しばらくして──青年は僅かに振り返り、手短に名乗った。

「……青木、衛」

3
 ──青木衛《あおき まもる》。
 現代ではありふれた、ごく普通な名前である。
 しかしこの名は、妖怪や怨霊といった、人為らざる者──また、超常的な力を持った人間にとって、決して触れてはならないということを意味する存在。
 言うなれば、『禁忌』であった。

 この名を知る者たちは、その男に対して、様々な思いを抱いていた。
 ある者は、畏怖すべき対象として。
 またある者は、憎むべき仇敵として。
 そしてまたある者は──これは極々一部の者であるが──敬意を払うべき強者として。

 そして彼らは、畏怖、憎悪、賞賛の意を込め、彼の事をこう呼んだ。

 ──『魔に等しき力を以て、襲い来る魔を祓う拳』──。

 即ち──『魔拳』と。


                       第1話 完

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