算命学余話 #U40「守備本能と幸福」/バックナンバー
算命学余話も40回目を迎えました。ご購読頂いている方々には深く御礼申し上げます。算命学をもっと知りたいという人がそれなりにいることは判っていましたが、その多くはより詳しい技法を知りたいのではないかと思い、技法の話ばかりではない余話の読者として定着するかどうか疑問視しておりましたが、毎月の読者数はそう減りもせず概ね安定しているので、書く側としても当面この調子で継続していきたいと思います。え、消費税アップに合わせて値上げをするか? 当面予定はありません。通常どおり、内容が物騒になった時には間口を狭める料金をつける場合がありますが、私の感覚ではもう毎回物騒な気配があるので、当分は現状維持です。ご了承下さい。
ところで認知科学者の苫米地英人が「努力は努めて強いるものなので自分は好きじゃないし、人にも勧めない。努力していると云れる人は実は好きでやっているだけ」という持論を展開しているのを聞き、ちょっと考えさせられました。確かに好きでないと続かないし、イヤイヤやる努力は効果が上がりにくいとは思うけど、では努力は無意味かというと、そんなことはないというのが算命学の見解です。
以前にも宿命によって努力型か天賦型かに分かれると説明しましたが、基本的に努力しなかった人は努力した人に譲ります。同一生年月日など宿命が全く一致している場合は特にそうです。ただ努力が報われやすい人と報われにくい人がいるのは確かで、報われにくいからといって人一倍努力をすればいいのだという単純なものでもない。まずその目標がその人にとって達成しやすいものなのかそうでないのか判るなら知っておいた方がいいし、仮に達成しやすいものであっても本人が好きでないなら注力する時間と手間を惜しむことも考えた方がいい。逆に下手の横好きであっても本人が幸せなら続けさせるべきだし、要はそれによって周囲に迷惑が掛かるような事態にならなければ、人間何をやってもいい。本人が幸せなら報われなくてもいいはずなのです。
問題なのは、好きでもないのに人に強いられて努力すること。ここに自分の意志はありませんから、仮にこの努力によって人が羨むような成果を得られたとしても、本人はあまり嬉しくないでしょうし、それはつまり幸せではないということです。苫米地氏はマインドの専門家ですから、「他人に強いられてする努力」という意味で努力を否定しているのだとすれば、算命学の幸福論とも一致します。
前回の余話で視座の話をした通り、算命学では福寿禄官印の五徳の中から一体どれがその人にとって最も必要なものなのか、つまりその人にとっての幸福、周囲の意見に惑わされない本人だけが求めている満足とは何かを探るに当たって、本人を中心とした視座をブレさせないことが重要です。奇しくも苫米地氏も「あなたのその目標は、親が望んだもの、先生が勧めたもの、友達がいいと言ったもの等々誰か他人が仕向けたものを、あたかも自分で打ち立てたと思い込んでいる目標である可能性が高い」と警告しているように、算命学もまた宿命に沿った人生を歩まなければ自分らしくは生きられないし、誰かに合わせて生きれば自分の一部なり全部なりを折り曲げなければならないと、その宿命の未消化を案じています。
算命学では、「自分で打ち立てた目標」が正しいかどうかは判らないのでそれについては何も論じていませんが、自然の中で生まれて死にゆく人間のやるべきことは、自然に沿った生き方をすることだとしています。そこでは本人の意志や意識はあまり考慮されておりませんが(無意識という領域を設けているため)、本人の意志と幸福との関係性については、技法からも読み取れるものがあるので、今回はこの点について局法を交えながら考察してみようと思います。
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