百人一首を読み返したくなる本
良書発見。周防柳著『身もこがれつつ』。宇宙人の読書には珍しい平安貴族もの。日本の歴史小説は好きだが、平安時代となるといま流行りの源氏物語をはじめとする後宮物語が多く、恋の駆け引きやら女たちのマウント争いやらには心惹かれるものがない。しかしこの作品は小倉百人一首の成立過程と承久の乱に至る動機を軸に、歌人の藤原定家と乱の首謀者たる後鳥羽上皇を癖のあるキャラとして登場させ、両者の屈折した愛情表現が見ものの異色歴史劇となっている。
物語の性質上、和歌が多数出てくるが、その意味付けが出色である。「和歌とはこうやって読んでいいものだったのか」と笑いながら感心する宇宙人。というのも、小倉百人一首は宇宙人が高校時代に古典の授業で暗記させられたものなのだが、今となっては数首しか記憶に残っていなかった。それは、ただ暗記して試験をパスするだけの単語の羅列としてしか認識していなかったからであり、歌の背景にある事情など忖度もしなければ興味も湧かなかったからだ。まあ恋歌が多かったしね。「なんだって平安貴族は猫も杓子も恋の歌ばかりひねっているのか。もっと他にすることあるだろ。仕事はどうした」と一丁前に思っていた。この頃既に硬派なロシア文学を読み始めていたせいもある(トルストイ翁曰く「若者は働かなくちゃいかん!」)。つまり高校生の宇宙人にはまるでピンと来ない、その後の人生にも関わってこなさそうなうわついた世界だったのだ。
それがようやく繋がった。それまでバラバラだった和歌と史実と歴史上の人物が、この作品の助けで相互に絡み合い一つの像を結んだのである。実に爽快な気分だ。ジグソーパズルのピースをはめ込んで絵が見えてきたような、視界が開ける感覚である。宇宙人は辻褄の合わない話を聞いていると頭がねじれて来るが、この作品は逆で、妙に腑に落ちる。更に、読み進むにつれて高校時代に丸暗記してはすぐに忘れた歌の数々がおぼろげながら脳裏に蘇って来た。なんだ、こういう趣旨の歌だったのか。当時かように解説してくれれば、もっと面白おかしく想像して興味も湧いただろうに。
ともあれ過去に記憶した切れ切れの和歌の知識がようやく役に立った。こんなこま切れの知識でも、もし全然なかったならこの作品を楽しく読むことはできなかっただろう。尤も、この作品は史実に沿って非常にうまく構成されているとはいえ、登場人物の内面やプライベートな側面は作家の創作であるから、史実と創作の境目は了解して読む必要はある。例えば藤原定家に「坊主が恋の歌を詠むなど気色悪いと思ってきた」と言わせるシーンは大いに笑えるし共感もするが、定家が本当にそう思っていたかどうかは判らない。もしかしたら定家の日記『明月記』に書いてあるかもしれないので、それを確かめるためにこちらの原典を読んでみるのもいいかも。こうやって読書の幅を広げてくれる有難い作品である。宇宙人は、読後に小倉百人一首をもう一度読み返したいと思い、高校以来本棚で埃まみれになっていた当時の参考書を取り出したくらいだ。あ、あった、あった、後鳥羽院の恨み節。
ようやく役に立ったと言えば、宇宙人はかれこれ20年程能稽古に通っているが、稽古で図らずも記憶するに至った詞章の中に、小倉百人一首ほか著名な和歌が差し挟まっていることに気付くことがままある。すると昔の面影を残す旧友に駅でバッタリ出くわしたような気分になって、思わず「お前かあ!」と嘆息する。詞章の中の和歌はそのまま丸ごと差し挟まっているのではなく、前後が少しだけアレンジしてある。能の形式や主旨に合うようちょっとだけ変えてあるのだが、変えすぎると本歌が判らなくなるからほんの少しだけ。そうした機微に気付く時、宇宙人はニンマリする。何か得した気分になる。
更に役に立ったと言えば、宇宙人はこの秋に素人のお弟子の舞台で地謡を謡うことになった。素人の舞台では通常、シテのお弟子以外は地謡も囃子もプロの能楽師が行う。そうでないと演目が崩壊するからだ。素人にバックは任せられない芸能なのである。ところが今回の催しではプロは参加してはならないという規定があり、素人且つ地謡ができそうな人員として宇宙人にお鉢が回って来た。へえ、そんな催しもあるのだな。ようやく役に立ったではないか、宇宙人よ。舞台の案内は夏の暑さが収まる頃に掲示しよう。