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算命学余話 #U98「官が地上を離れる時」/バックナンバー

 先日有料鑑定の依頼者の方から、鑑定結果が大変役に立ったので、ブログ記事に使うなど何らかの形で役立ててくれて構わない、という有難い申し出を受けました。鑑定者冥利に尽きます。鑑定結果そのままを公開するのはさすがに憚りますが、特殊な命式例としていつか「算命学余話」で活用させて頂きます。ご協力ありがとうございます。

 特殊な命式と申しましたが、特殊な命式の人が特殊な人生を送る、という安易な飛びつきは危険です。前回までのピーマンとニンジンの喩えのように、宿命を食卓に並んだ献立と見立てるなら、どの皿から手をつけるも、お替りするも、食べずに残すも、本人の自由です。
 生年月日が同じ人はこの世にゴマンといますが、一人として同じ人生にならないのは、そのそれぞれが好みの順番で皿を手にし、好みのソースや塩を振り、苦手なものを後回しにし、逆に最初に食べて好物を最後にとっておき、猫舌ならスープは冷めるまで待ったり、生肉でうっかり食中毒に遭ったり、紅茶に砂糖を入れ過ぎて口内炎になったり、自ら創作料理を作り出したり、テーブルマナーを守ったり守らなかったり、誰かに分け与えたり横取りしたり、と数え切れないバリエーションで食事に挑んでいるからです。楽しく栄養豊かな食事にできるかどうかは本人の裁量に懸かっており、食卓にのぼったメニューの差は実際には大してないのです。この場合の本人の裁量とは、生き方のことです。

 仮に人が羨むような特殊な命式であったとしても、一般的解決法が当てはまらないという弱点を考えれば、往々にして状況は不利になります。喩えるなら、特殊な命式というのは、例えばキャビアの缶詰がポツンと皿に載っているようなもので、どうやって開けるのだろうと青くなっていると、後ろを給仕が通りかかったので缶切りを所望したら運よくすぐ持ってきてもらえたとか、確かに他のテーブルの人たちはキャビアを見て羨ましいと思うかもしれないけれど、缶切りがなければ食べられないじゃないかとか、パンとバターも欲しいとか、栄養価はどうなのとか、実は魚卵アレルギーだとか、余人が思いもよらぬ基本的なところで苦悩していたりするものです。もしかしたら、給仕は通らず、近くに缶切りも見当たらず、5キロ離れたホームセンターまで買いに走らなければならないかもしれない。その間に食事の時間は終わってしまうかもしれません。

 だからキャビアだけを見て喜んだり羨んだりしている人は、まだいくらも人生経験を積んでいない未熟で「文化の浅い」人であることを露呈しています。こういう人が算命学の技術だけを学んだところで、千差万別に悩める依頼者に的確な助言を出せるはずもありません。算命学の技術以前に、人生の食卓のマナーや手順、おいしく安全に完食する調理方法や栄養価の知識、苦手な食材の克服方法などを知悉していることが求められ、それはつまり常識と、常識が当てはまらない極端な事例に対する対処法という意味での特殊技能の、両方が備わっていなければならないし、その両方を見分けて正確に分別する鑑識眼も必要となります。更に、その人にとって何が幸せで何が不幸なのかという千差万別の課題を見極める技術も問われます。そこには明確な答えはなく、相手がこれまでに食したメニューとその感想、健康状態、まだ残っている食材等から総合判断していかなければなりません。座学だけではどうにもならないのです。

 しかし何より重要なのは、結局のところ食事をするのは本人であり、本人の意志がなければ何事も消化されないということです。やる気のない人に食事を勧めても意味がありません。胃ろうでもして生かしておくのでしょうか。どんな宿命であろうとも、本人にやる気や努力がなければせっかくの食事も台無しです。調理済みでただ食べるだけのフルコースを前に好き嫌いを論じている人と、缶切りを見つけてこれで缶詰が食べられると喜ぶ人とでは、経験値がまるで違います。メニューの優劣すなわち宿命は、問題の一部分にすぎません。肝心なのは、いかに食卓で充実した時間をすごし、滋養を取り入れ、最後にご馳走さまでしたと感謝の言葉が出て来るかどうかなのであり、こここそが普遍的な意味での幸不幸の分れ目なのです。

 宿命に対する認識の喩え話としては他にもいろいろあるのですが、「科学界のインディ・ジョーンズ」こと長沼毅氏が自著『辺境生物はすごい!』で、宿命とは全く関係のないはずのゲノムについて実に興味深い、そっくりな喩え話をしています。曰く、「ゲノムは生命の楽譜であり、これを演奏するのは自分である」。
 かいつまむと、例えばネアンデルタール人は我々人類の祖先と同時代に生きていた別種の人類であったが、我々より脳の容量が大きかったにも拘わらず、言語能力を持たなかったと言われている。その知恵が一代限りで次世代へ伝達されなかったことから、脳の小さい我々の祖先に遅れをとり、最終的に絶滅した。脳の容量が大きいから知能が高くなるのではない。言語能力に係わる遺伝子はネアンデルタール人にもあるのだが、その能力を発現させる遺伝子のスイッチをONにすることができなかった。我々の祖先はそれができた。つまり両者の持つ楽譜(=ゲノム)は同じであったのに、いざ演奏すると音楽は別物になったというわけです。
 算命学に置き換えると、楽譜が宿命、演奏される音楽が人生ということになります。人生のスイッチをONにするのは、やる気や努力、周辺環境やタイミング、経験の蓄積といったところでしょうか。それを左右しているのは、演奏者である自分です。そしてスイッチをONにできなければ、その楽譜は宝の持ち腐れに終わるのです。

 さて、今回のテーマは金性の司る官についてです。思想に関する考察話なので、鑑定技術に関するノウハウを知りたい人には退屈かもしれません。
 陰陽五行の五行である木火土金水は相生関係の順でこの並びになっておりますが、この五行を五徳に置き換えると、福寿禄官印となり、やはりこの順番に相生関係になります。福は幸福、寿は健康や生殖、禄は財産、官は名誉、印は知恵です。知恵の最高峰は哲学であり、悟りの境地であります。知恵を極めた悟りの先に至福感が待っていることから、印の次は再び福へと繋がっています。しかし印を極めることは非常に難しく、人間の多くは印の領域にさえなかなか辿り着けない。そのため印は五行五徳の最後尾に配置されているという話は、以前の余話で触れたかと思います。今回はこの印のひとつ前の官に注目し、四番目という微妙な位置が意味するものについて、考えてみます。
 実はこの微妙な位置について注目するきっかけとなったのは、先日日本を熱狂させたラグビーW杯の日本代表の活躍でした。武道家の私は球技などの勝ち負けで話が終わる外来スポーツに対しシニカルで、そこに精神性を見出せず感動することもなかったのですが、今回は非常に感銘を受け、弱小国である日本チームが大金星を上げたという快挙以上に、マイナー競技に打ち込み続けた選手たちの地味な努力と忍耐力に興味が湧きました。そんな観点から官の本質について分析してみます。

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