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算命学余話 #U113「干支暦の制作事情」/バックナンバー

 最近、正社員の副業を認める企業がちらほら出てきたが、私は会社勤めしていた頃から個人で運勢鑑定を引き受けていたので、世の中一般は副業を禁じていたのかと今更のように驚いた。憲法は職業選択の自由を保障しているのだから、会社が副業を禁じること自体おかしな話だ。
 おそらく就業中に別の仕事をやってもらっては困るからという理由なのだろうが、歴史を振り返れば、今日的な意味の公務員であった江戸期の武士たちが副業禁止であった名残ではないか。お殿様に仕えて俸禄を貰っているのに副業するとは、暗に禄が足りないという抗議の表れか、無礼である、というわけだ。
 一般に下級武士が貧乏であったことは知られている。アルバイト禁止の武士たちはせめて寺子屋や武道場を経営して人々を「教育」、つまり文化活動という建前で得られる謝礼を生活の足しにしていた。武士たる者はあからさまな金儲けをやってはいけないが、領民の民度や生活力を上げるための社会貢献であるならやってもいい。農民相手の寺子屋なら、謝礼は金銭ではなく芋や大根であった。芋や大根で物は買えないが、これを食えば食費を節約することはできた。
 武士がその高い身分により貧乏を強いられていることを庶民も知っていたから、武士の借金も数回に一回くらいは踏み倒させてやっていた。商人が一銭も譲らず借金の全額返済を迫れば、武士は無礼討ちの刀を抜いたかもしれない。商人も命あっての商売なので、武士の刀の錆にならぬよう多少の損には目をつぶっていた。むしろ武士に恩を売ることで、その後の商売をやりやすくすることもできただろう。
 バランスのとれた社会生活とはこのようなことをいう。算命学の学習者には、このエピソードが五行のバランスの話だということにピンときて頂きたい。

 副業を許可した企業の表向きの言い分によれば、社員が異業種に関わることで人脈や知見を広め、結果的に本業の活性化に貢献することを期待しての決断だということである。もちろん裏の理由を勘繰れば、容易に給料を上げることのできない昨今の経済状況の中で、「足りない分は副業でもして自分で補ってくれ」と自己責任に帰するよう誘導し、社員の不満の矛先が会社に向かないようにするためなのだろうから、社員にとっては一長一短だ。
 ともあれ、他者依存に偏る昨今の日本には自助努力への揺り戻しが必要だと考える算命学は、こうした傾向は歓迎している。一般に算命学は、職業に拘わらず、毎日同じ事をするよりは、たまに違った事をするなど生活に変化をつけることを奨励している。いつも通っている通勤路をたまに変えてみるだけでも普段とは違った風景に出会えるように、視野を広げるのに役に立つからだ。情報量も多くなるし、その情報により判断力や洞察力を高めることにもつながる。副業は大いに歓迎である。本業の会社が傾いた場合に、いち早く離脱して生計を維持するための安全保障として有効だからだ。沈む船にいつまでも付き合う必要はないのである。

 算命学は比和に代表される硬直や停滞を嫌うので、世界が過不足のないバランスを享受するためには、個々が適度に動き回り、陰と陽を行ったり来たりし、活動と休息を交互に繰り返し、五行の相生相剋を主体になったり客体になったりしながら満遍なく味わうのが良いのです。人間関係でいえば、新しい出会いがあればそれに越したことはありませんが、チャンスが乏しければ旧交を温めるというのでも良い。いつもと違った人と会って対話することで、会う前の自分とは少し違った自分になっていればいい。
 一番いけないのは引き籠りです。他者との対流がないと思考も運勢も硬直して腐敗を招くからです。たとえ嫌いな人や苦手な人であっても、誰とも交流しないというよりはマシです。陰の後には必ず陽が待っているので、苦手な人に会うことで後の事態の好転を期待できるようになるからです。
 手っ取り早いのは、「たまにしか会わない旧友」と間隔を置いて遊ぶことです。しばらく間隔を置くことで双方の生活が進み、会った時に交わす新しい情報が増え、互いに多くの刺激をもたらすからです。こういう相手は毎日会っては却って効果が薄れます。適度な距離のある知人というのが貴重な財産となるので、思い当たる顔の浮かぶ人は是非連絡をとってみて下さい。必ず刺激になりますから。

 今回の余話は、しばらく留守にしていた思想的な話です。上述のように陰陽は交互にめぐり、我々人間は陰陽を相対的に交互に味わいながら人生を歩んでいるわけですが、現在自分が陰陽どちらに属しているかは、何を基準に陰陽を分けるかによって全く異なるため、明言すること自体意味がありません。人間は生きている限り陰陽を交互に足踏みしている状態だ、というのが間違いのない表現であり、もし足踏みをやめれば停滞となり、これは良くない事態だと算命学は見做します。
 しかし、自分がいま陰陽どちらに足をかけているか判らない以上は、もしかしたら両足とも陰の領域にあって、自分は足踏みしているが場所的にはずっと陰のまま停滞している、という事態もあり得ます。このように「自分では気付かぬうちに」陰陽どちらかに長く停滞することで、人は運勢を行き詰らせ、陰陽反転できなければ最終的には死に至ります。
 自分で気付くことができないものをどうやって算命学は鑑定していくのか、というテーマについて直接は論じませんが、間接的に理解する手立てとして、今回は技術的な話ではなく、考え方の話をしてみます。白黒が明確な答えがあるというものではないので、自分は安易な答えに飛びつく輩ではないぞ、思考トレーニングは望むところだ、という自負の方のみ、購読料にご注意の上ご覧下さい。

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