『死の貝』に学ぶこと
急に涼しくなった。昭和の高度成長期に建てられた鉄筋コンクリートの我が老朽マンションは、当然ながら壁にも天井にも断熱材などというハイテク資材は入っていないので、日中の日射で温められたコンクリートの壁が夜中に放熱し、室内に眠る宇宙人をひと晩中炙り続けるのであるが、そんな灼熱地獄が急に鳴りを潜めた。
室内の温度計は25℃を指している。25℃と言えば熱帯夜の基準値であるからさして涼しいわけではない。しかしわが灼熱マンションは夜中の1時でも早朝の5時でも32℃を指していたから(こんなんで眠れるかあ!)、25℃の朝など薄ら寒く感じるくらいだ。慣れとはこうしたものか。連日35℃超えの猛暑に慣れ親しんでいるうちに、暑いと感じる境界温度がいつの間にやら上がってしまったのだ。感覚がマヒしたというやつだ。人体の適応力とは大したものである。まあ気温適応くらいなら良かろう。これが社会の病理と呼ぶべき理不尽の数々への適応ともなると、「ああ涼しく感じる」では到底済ませられない。そこは慣れたりマヒしたりしてはいかんのだ。
宇宙人が好む文系向き科学ノンフィクションを紹介しよう。小林照幸著『死の貝 日本住血吸虫症との闘い』。戦前の徴兵検査で不合格になるほどの発育不全を起こす謎の風土病をめぐる医師たちの奮闘記なのだが、その一段一段階段を上るような地道な努力と病原解明への紆余曲折を細やかに描いたリアリズムが心に響く。フィクションにはない誠意と力強さがある。長編にも拘わらずあっという間に読み進められるので、是非全編をお試し頂きたいが、ここではタイトルにもなっている病原の貝の行く末について、ちょっと考えさせられたので走り書きしておく。
タイトルの通り、謎の病の正体は「日本住血吸虫症」という寄生虫を起因とするもので、その寄生虫は田んぼや川辺に棲息する小さな巻貝を第一宿主として変態する。その後人間ほか哺乳類には第二宿主として寄生するので、その第一から第二への変態を阻むべく巻貝の撲滅が急がれたのだが、よくよく考えると巻貝にとっては迷惑な話で、結論から言って、この病気は見事根絶された代わりに、媒介者たる巻貝の方が絶滅危惧種になってしまったのだった。
環境破壊や動植物の絶滅に厳しい態度の現代からすれば「巻貝がかわいそう。元の棲息数まで増やそうよ」ということになるのだろうが、そんなことをすれば先人の努力が水の泡だ。本の口絵に載っている写真のように、見た目も恐ろしい病なのだから。私は趣味で登山をするが、東京から日帰りで行ける山梨の山麓がぶどうの名産地になっている由来を、この本を読んで初めて知った。あの辺りはこの巻貝の棲息地で、巻貝撲滅のために水田や水辺を埋め立て、代わりの農作物としてぶどう栽培が西洋から取り入れられた結果の、比較的新しい景観だったのだ。
そのほか、今は悪名高いコンクリートの河川溝も、「産卵に来る魚が遡れない」とか「小さな生物や蛍が棲息できない」とか非難されて、これを自然の形に戻そうという取り組みがトレンドになっているが、そもそもこの巻貝が棲息できないようにコンクリートで防御したのが始まりだったのだ。病に苦しむ住民が自ら望んでコンクリートで覆ったのであり、意図して巻貝を殲滅したのである。魚や蛍や景観を優先してコンクリートを剥がそうとしている「善良で賢い」市民ら(大体が余所者)は、果たしてこの巻貝や寄生虫の存在やその病の引き起こす恐ろしい症状を知っているのやら。そういうことを考えさせられる良書であった。
撲滅の対象となってしまった気の毒な巻貝に対し、本丸である寄生虫の方に矛先が向けられなかったのは、人知の限界というべきかもしれない。巻貝を絶滅から救うには、本丸の寄生虫をピンポイントで叩くのが有効なのだが、当時の技術ではそれは叶わなかった。今ならどうなのか。
そもそも寄生虫のくせに、宿主である人間が摂るべき栄養を横から吸い尽くして、結果宿主を衰弱死させてしまうほどアホなのだから、放っておいても自ら絶滅してくれそうなものだが、そうはならないのが自然の不思議なのだ。「食い尽くしたら、その先には自分自身の飢え死にがある」という教訓は、人類には当てはまっても極小の寄生虫には当てはまらないのかもしれない。人類が地球上に誕生するずっと以前から生息していた微生物なのだ。いろいろサバイバルのためのノウハウを持っているのだろう。或いは、この寄生虫にも何某かの役割があって、この宇宙に存在を許されているとも考えられる。人間には伺い知れない大切な役割があるのかもしれないし、もしかしたらその一つは、人類に「食い尽くすと自分の首が締まるよ」と警告するという役目なのかもしれない。
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