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算命学余話 #R13「死刑を考える」/バックナンバー

 作家の故夏樹静子は執筆活動たけなわの壮年期に突如原因不明の病に罹り、仕事をやる気は満々なのに体が言うことをきかないという状態に長期間陥ったそうです。方々の病院へ通いあらゆる治療を試みたけれども効果がなく、最後に辿り着いた医師がとうとう突きとめた病名は「疾病逃避」。ひと昔前の話なので今日の病名とは違うかもしれませんが、いわゆる心身症のひとつで、心と体の乖離が進んだ結果として体が動かなくなる精神性の病でした。やる気の出ない人を十把ひとからげに鬱病と診断する今日の習慣が広まる前の時代の話です。
 夏樹静子はインテリですし、ボケてもいなかったので、病気の最中にも自己観察を怠らず、病後はこの顛末を文字に起こして稼いだそうだから、今どきの鬱病とは違うようです。本人の自己分析によれば、執筆依頼が殺到して作家冥利に尽きる仕事生活を送っていたので、自分としては満足して激務に耐えていたが、肉体の方は疲労が限界を超えたために活動を停止し、休息を要求したのだと。しかし仕事をしたい夏樹氏は、自分が疲労していることを認めたくないため肉体の要求を無視し続ける。肉体は「休みたい」と声を上げている。結果として生命の維持を担っている肉体が勝った。肉体は休みをとってくれない夏樹氏を病にし、起き上がれなくしたのです。
 実際に病巣が生じたわけではなく、細菌やウィルスといった外的病原もなかったため病院をたらい回しにされることとなりましたが、最後に出会った医師の診断に従い、夏樹氏は技法療法という入院治療を受け入れます。12日間の水以外の絶食、面会謝絶、情報遮断という荒療治に耐えて、見事根治に成功、日常生活を取戻しました。
 夏樹氏は自分でも気付かない深層心理が訴える「休みたい」という願望を押し殺し続けた結果発症した病の実体験から、「全ての原因は心の中にある」という真理に到達します。「病は気から」と言いますが、夏樹氏が自覚できる意識は「仕事がしたい」気分だったのですから、自覚できない無意識の意向がいかに自意識に勝るかを伺い知る貴重な経験となったわけです。

 算命学余話がこのエピソードを取り上げて指摘したいことは何か、学習者の皆さんの中にはピンときた方もおられるかと思います。
 まず心身のバランスがとれていないということ。心と体は陰と陽なので、どちらか一方に比重が偏っても全体の調子を狂わせます。前回の余話#R12玄でも触れましたが、男女の陰陽がペアにならないと子供が誕生しないように、心と体の陰陽もほどよく揃わないと人間は生きてはいけないのです。これは社会も同じで、社会的病理というのは、何らかのフェイズで何らかの陰陽バランスが偏重しているために生じる警告なのです。格差問題やいじめ等も、一方が生命の危険に曝されるほどバランスを欠いていなければ、問題とは見做されなかったことでしょう。
 次に、夏樹氏が体験した自意識と無意識の違いについて。これはどちらも精神世界の話です。算命学は世界を陰陽で分け、更にそれを陰陽に、また陰陽に、という具合に細分化していきますが、精神世界を陰、物質世界を陽とする一方で、精神世界もまた無意識の陰と自意識の陽に分けられます。普通、鬱病や更年期障害などによる倦怠感は、本人にやる気が起きなくて更に助長されるものですが、夏樹氏の症例では、本人はやる気満々でありながら体が動かなくなりましたから、これは前者に比べてイレギュラーというか、ひとつひねりの加わった精神症状だと言えるかと思います。従って原因が突きとめにくく、治療方法にも工夫が必要でした。算命学の理解に重ねるなら、自意識は陽占、無意識は陰占の領域という認識が近いかと思います。

 ところで、この世には体にとっての毒物というのはないそうです。あるのは種々多様な成分であり、ある成分の過剰摂取が毒になるに過ぎないと。私たちは大量のアルコール摂取により人が中毒死することは知っていますが、日常生活で飲酒をやめないのは、適正な分量を守っていれば健康に害がなく、有益でさえあることを知っているからです。
 これと同じで、発ガン性物質と言われるものも、専門家によればすべては分量の問題です。ヒ素や放射線でさえも我々は自然界から日々摂取しているのであり、それが問題とされないのは分量が少ないからだというわけです。だからポテトチップもおこげも平気で食べられる。でんぷん質の焦げは発ガン性物質とされているけれども、ガンに至るまでには毎食それだけを食べるくらいの勢いが必要なので、数日に一度、ちょっとしか口に入らないなら気にする必要はないわけです。ちなみに砂糖でも1.8kg、塩でも2カップ程度を一気に摂取すれば、立派な致死量だそうです。砂糖も塩も毒になる。けれども毒になるほど一度に食する人はいない。だから毒とは言わないのです。この話、非常に示唆的です。

 夏樹氏の仕事量は毒になるほどの量に達していた。だから生命維持装置である深層意識が仕事をシャットアウトしたのです。仕事自体が毒であるわけではなく、適度な量であればアルコールと同様、有益なものなのです。要はバランス。算命学でも、陰陽のどちらがいいかとは言わないし、善悪も論じません。ただ陰陽どちらかに著しく偏っているのは良くない、その先には淘汰が待っているから、と考えています。

 さて、今回のテーマは死刑についてです。最近、死刑制度廃止を訴える発言をした瀬戸内寂聴氏が、殺人事件の加害者の死刑を求める被害者遺族による猛反発を受けて謝罪したという事件がありました。この種の議論は大抵、冤罪の可能性があるから死刑はだめだという意見によって問題の本質をすり替えられるのですが、では冤罪が100%なければ死刑はOKか、というとそうでもないのですから、冤罪はこの際関係ないと考えます。上述の通り、算命学は陰陽でしか物事を裁断しませんので、死刑が善か悪かという議論には与しません。ただ、死刑を執行することによってどういう事態が想定できるか、という話はできます。そういう視点から、死刑はあるべきか、無い方がいいのか、考察してみます。

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