山宿すったもんだ #3
(つづき)下山後、首尾よく最終バスに間に合った宇宙人は、予定の時間に最寄り駅に辿り着いたものの、突如として大雨が降り始め、友人の待つ松本行きの列車が運休となったことを知る。踏んだり蹴ったりの一日である。運転再開後も点検と徐行とを繰り返し、通常の三倍の時間をかけてようやく松本駅へ到着したのは21時。さすがの宇宙人ももうヨレヨレだ。早寝早起きの山暮らしでは既に寝る時間なので大層眠い。
余力を振り絞って駅前の車寄せまで荷物を引きずっていく宇宙人。夕食を準備して迎えに来てくれた友人が手を振るのに感激する宇宙人。この雨で運休が相次ぎ駅構内は人が溢れていたから、友人がいなかったらこの日の宿を自力で見つけられたかどうかも疑わしい。危なかった。持つべきは友なのだ。お礼に革製品をお作りしよう。何でも注文してくれなのだ。
前の晩のメールのやりとりでは、ひと月後仕事を終えて帰宅する際に松本で落ち合ってお茶でもしようという話だったのだが、急遽かような事態になったため友人宅へお邪魔することになった。ご家族に申し訳ないねえ、突如として宇宙人が家に闖入してきちゃってさ。でも怪我の功名とでも言おうか、かような展開になって得るものは多くあった。
まずは意外な線だが、友人がカプースチン先生に興味を示したこと。お子さんがコンクールに出る程のピアノの腕前と聞き、朝食の余興に「8つのエチュード」第一曲の音源を聴かせたら、子供よりも友人の方が食いついた。まあ、ピアノ好きだったら仰天するよ、カプースチン先生の作品は。なので宇宙人が所有する楽譜の一部をコピーして、ささやかなお礼の品とすることとした。盲目のピアニスト辻井伸行君は耳だけで第一曲を習得したけど、普通の耳ではとても真似できない。カプースチン先生の楽譜はピアノ弾きなら欲しくなるから、いい土産となった。こういう音楽があるから、ロシア・ソ連をやめられない宇宙人なのであった。
もう一つは、友人が脱サラして立ち上げた花加工のアトリエを実見できたこと。プリザーブドフラワーの花材を手作業で制作しているとは聞いていたが、どんな工房かと思いきや、宇宙人の土星の裏側革工房と同じく自宅の一角で作業しているのであった。道具類も特殊なものはなく、百均とホームセンターで揃えられる量産品を作業しやすいよう改造したオリジナルの道具を使っている。道具そのものが店で売ってないとこうなるのだ。わが革工房にもこうした品はある。
画像はその制作過程の花材の様子。一度白くした花に染料で色付けしていくのだな。染料なら宇宙人の革工房にも多数あるぞ。既製品にない色目は自分で調合して好みの色を作るのだ。何やら親近感。友人曰く、バラなどオーソドックスな花材は既に大手が手掛けているが、マイナーな花材はやっておらず、この隙間に商機がある。しかし前例がない為ありとあらゆる花材に加工を試し、どれがダメでどれが加工に耐えるかとか、潰さずに形を保てるかとか、発色はどうかとか、試行錯誤に結果を積み重ねる研究職のような作業が続いている。なるほど、当分飽きるヒマもなさそうだ。宇宙人は革カバンの作り過ぎでもう押入れが一杯で、やたら手間のかかるビリービンの版画の模写や、老眼の進んだ目にはよく見えないミニチュアブーツの制作などにまで手を伸ばして創作意欲を維持しているが、花加工はまだ開拓の余地が広々なのだな。
春になるとあちこちで花が咲き始めるため、これを枯れないうちに収穫して次々加工するのに大忙しだという。なんだかミツバチみたいな仕事である。庭には夏の花が咲き乱れ、一家で食べきれないほど実ったカボチャやキュウリが収穫を待っている。花加工の副産物のポプリや自家製ジャムを土産に持たされ、来た時よりも荷物を増やして友人宅を後にする宇宙人。これが豊かな暮らしと言わずして何であろう。
しかも副産物はこれだけではなかった。帰京して都会の暑さにぐったりしていた宇宙人の周りで、花をめぐる活動がにわかに動き出したのだ。今回の顛末を面白おかしく別の友人に報告していたら、友人が所属するフラワーアレンジメント教室の先生はじめ、プリザーブドフラワーに関心のある顔ぶれとタイミング良く繋がったのである。松本の友人は未知の花材の実験を続けながら販路拡大も模索しているので、需給が合致すれば双方に利益が生まれよう。図らずも橋渡しの役目を担う宇宙人。今回の山宿すったもんだも無駄ではなかったな。これで花加工の認知度が上がったり素敵な花アレンジが生まれたりするなら、山宿のハズレくじもアタリに転じようというものだ。まさか、神様はこれを狙って宇宙人を急ぎ下山させ、雷雨で電車を足止めしたのであろうか。わからない。
ともあれ、この花事業は今後もモニターしていこうと思う。宇宙人も革工芸が実用カバンからアート的なものへと移行しつつあるから、革と花のコラボ作品などひねり出して、大量消費社会に一矢報いるべく「心豊かなライフスタイル」に貢献できるやもしれぬ。花で身の周りを飾るって、心に余裕がないとできないからね。せっかく花が生けてあっても、視界に入らないような生き方では豊かとは言えない。